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ガリレオ・ガリレイ―「それでも地球は動く」といった物理学の父 [人]

読み聞かせ時間 大人が読んで15分
ウケ度 こどもたちが読んでいないんでわからない。興味がないのではなく、時間がなかったみたい
印象度 大体しっていたとおりだった

ガリレオ・ガリレイは1564年イタリアのピサで生まれた。
家はもともとフェレンツェの小貴族だったが、このころは没落していたらしい。
父親は音楽家であったが、生活はあまり豊かでなく、毛織物を扱う商売もしていたらしい。

父親からリュートなどの手ほどきをうけ、9歳から私塾のような学校に通った。
しかし7人に子供を抱えるガリレイ家の生活は苦しく、10歳のとき父親がフェレンツェの宮廷で音楽を教えることになったので、うつることになる。

フィレンツェでは、バロンブローザの聖マリア修道院で寄宿しながら勉強をすることになった。
ピサの私塾と違ってラテン語が中心で数学は教えておらず、科学ではアリストテレスの学説が確かめられもせず教えられていた。

ガリレオは大学で科学や天文学を勉強したがったが、家には余裕がなかった。
しかし父親は医学を学んで医者になるようにといって、ピサ大学の学費を工面してくれた。
ピサ大学でもアリストテレスの教えが絶対と教えられており、ガリレオは失望する。
父親の「心理を求めるならどんな権威にも立ち向かっていく勇気と知恵をもて」という言葉をたよりに勉強をつづけ、19歳のとき聖堂のシャンデリアのゆれから「振り子の法則」を発見し、実験で確かめる。
そんななか、とうとう父親が学費を払えなくなり、ガリレオはピサ大学をやめることになる。

家に戻ったガリレオは近所の病人をみたりしてお金を稼ぎながら独学をつづけ、ものの重さや密度を図りだす比重計を発明したり、石や鉄などの個体には必ず重心があるなどの理論を発表。科学者として認められるようになり、デル・モンテ伯爵の推薦でピサ大学の講師になる。
伯爵の他にも数学者のオスティリオ・リッチらがガリレオを応援してくれるようになる。
ピサ大学では有名なピサの斜塔からの落体実験をおこない「落体の法則」を発表。
古い学説を学ぶばかりではなく、実験と観察で検証する大切さを教えた。

1591年、27歳のとき、最大の理解者であった父親を亡くす。
またピサ大学との契約もきれ、収入のないまま家族を養わなければならなくなる。
しかし、デル・モンテ伯爵らの計らいでパドバ大学の教師となり窮地を脱する。

パドバ大学は真実と知識を重んじる自由な雰囲気をもつ大学で、給料もピサ大学の3倍になり、ここでガリレオは学者としての黄金時代を迎える。
当時は大航海時代を迎え、宗教の世界ではマルチン・ルターが始めたプロテスタント運動が広がり、カトリックとの宗教論争に発展していた。そんな中アリストテレスの説をかたくなに信じる学派はカソリックと結びつき、天動説を唱えていた。しかし天体の観察などから次第にコペルニクスの唱える地動説が有力となり、協会の中でも地動説を支持するブルーノなどが現れる。これに対してローマ法王はブルーノを火あぶりにするという弾圧を加える。

当時ガリレオも地動説を支持しようとしていたが、友人のサルビの説得などもあって、公には話すのを控えるようになり、温度計の発明などにとりくんだ。
1604年、パドバの上空に見たこともない明るい星(超新星とおもわれる)が現れる。アリストテレス学派は月のかなたの空間にはなんの変化もおこらないとアリストテレスが述べているので、あれは月に反射した太陽の光である」といったが、ガリレオは「新しい星である」と反論。アリストテレス学派の怒りを買うことになる。

1608年オランダ・ミドルブルクの眼鏡屋で遠眼鏡が発明され、ガリレオはこれを改良して望遠鏡と名付け、月の観察をして、クレーターなどを発見した。また木星を観察して衛星を発見。
月の表面は地球ににていること、ほかの星にも衛星があることなどから、地球は特別な星ではなく、ふつうの星であることに確信をふかめ、ますます地動説への確信を深める。しかしこの発見をまとめた本「星からのたより」でもその立場を明確にはしなかった。

「星からのたより」はメディチ大公にささげられ、このことからガリレオはメディチ大公の計らいでピサ大学に戻ることになりフィレンツェに引っ越す。
フィエレンツェでも望遠鏡で金星、土星、火星、太陽と観察を続け、黒点の発見などをする。このときレンズにすすをつけた太陽メガネや、穴を通った太陽光で太陽を観察する方法などを使った。しかしこのときの観察がもとでのちに失明したといわれている。
「太陽の黒点に関する覚書」を発表。
また、学問をより広めるため、本をラテン語でなくイタリア語で書くことを決意する。

1611年、ローマ法王パウロ5世と対面。法王とともに月や木星を観察し望遠鏡を送る。
これで立場がよくなったと思ったガリレオだが、弟子にあてた手紙で地動説を支持していることが法王庁に発覚。呼び出されて裁判にかけられ、地動説を口にすることを禁止する判決にサインさせられる。

すっかり気落ちしていたガリレオだが、娘ビルジニアの励ましなどで、次第に元気を取り戻し
「天文対話」を発表する。この中では地動説支持者の学者が、天動説支持者の学者をコテンパンにしており、これが再び法王庁で問題視され、ガリレオは再び呼び出されることになる。
悪いことにこのころかわいがっていた長女ビルジニアをなくす。また39歳で発病してから患っていたリューマチが悪化。
そんななか1632年51歳のときローマで裁判をうける。「天文対話」は禁書とされ、ガリレオは牢屋にいれられる。しかし、法王庁がなんといおうと地球はうごいていると確信するガリレオは牢屋のなかでも本を書き続け、彼の名声を慕ってくる学者などに会っていた。
目が不自由になったため、息子ビンツェンチオの世話で、本は弟子トリチェリが口述筆記した。
1636年7歳のとき「新科学対話」を発表。このころには両目を失明していた。本はイタリアでは出版できなかったので1638年オランダで出版された。
1642年弟子と息子に看取られ息を引き取った。この年にイギリスでアイザック・ニュートンがうまれている。

1989年にはローマ法王、ヨハネ・パウロ2世がガリレオの迫害は間違いと発言。その名誉が回復された。


ガリレオ・ガリレイ―「それでも地球は動く」といった物理学の父   学習漫画 世界の伝記

ガリレオ・ガリレイ―「それでも地球は動く」といった物理学の父 学習漫画 世界の伝記

  • 作者: 熊谷 さとし
  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 1992/11/20
  • メディア: 単行本



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チンギス・ハン―モンゴル帝国をきずいた草原の勇者 [人]

読み聞かせ時間 小4と小6、自分で読んで25分
ウケ度 ちょっと難しかったみたい
印象度 チンギス・ハンは意外と戦いには弱い

モンゴル高原のの部族の単位
ヤスン(氏)・・・血縁関係のあるいくつかの家があつまってつくる。
オボク(族)・・・ヤスンがいくつか集まってできた社会集団
クリエン・・・オボクがそのまま軍事集団になったもの。

12世紀の中ごろ、モンゴル高原には、モンゴル族、タタール族、オンギラト族、メルキト族、オイラート族、ナイマン族、ケレイト族など多くの部族がいて、戦いを繰り返していた。

モンゴル族キヤト氏の長イエスゲイ・バアトルは勇猛でしられ、近隣の族長にも一目置かれていた。
のちのチンギス・ハン、テムジン・ウゲはイエスゲイの長男として生まれ、イエスゲイはその日戦ったタタール族の勇者の名を彼につけたのだという。
目に火あり、顔に光ある、すばらしい人相で、手に血の塊を握ってうまれたので偉大な王になると予言された。
生まれた年は諸説あるが、1162年が有力視されている。

テムジンが9歳のとき、父親のイエスゲイはテムジンの花嫁を探しにいく。
当初母親の故郷オルクヌウト氏の集落を目指したが、途中でオンギラト族のゲルに出会う。
遊牧民の礼儀として、ゲルをみつけたら立ち寄ってあいさつし、ゲルの住人は旅人をもてなすというものがあり、イエスゲイもこのゲルに立ち寄った。
ここで出会ったボルテを気にいったイエスゲイはテムジンの花嫁に決める。
ならわしに従ってテムジンはボルテたちのゲルに預けられ、父親は家に引き返す。

しかし、イエスゲイは帰る途中でタタールのゲルに礼儀通りのあいさつをした際に毒をもられて亡くなってしまう。急ぎ家に戻ったテムジンだったが、まだ幼いテムジンに従うことを拒否した仲間たちは一家を残して去ってしまう。
テムジン一家は、母親とテムジンの弟3人、妹1人が力をあわせ、なんとか生きぬいていく。

しかし、一家をみすてたタイテウト氏は、テムジンが成長するにしたがって不安になり、とうとう一家を襲い、テムジンを殺そうとする。一家は勇敢にたたかうが、テムジンはとうとう捕まり、しばられて集落をひきまわされる。テムジンは隙をみて逃げ出し、川に身を沈めて隠れる。これにきずいたソルカン・シラはテムジンをかばって逃がしてくれる。

一家はブルカン岳の南、悪魔の棲む山と恐れられるグレルグウ山とから・ジルゲン山のふもとココ・ナウル(青い湖)に移動する。
ここでかつてアンダの誓いをしたジャムカに再会。アンダの誓いは遊牧民が兄弟のようになかよくしするという誓いでした。
また馬泥棒にあったとき、いっしょに探してくれたアルラト氏のナクウ・バヤンの子ボオルチュとノコル(友達)となる。などの出会いがあった。
生活も安定したテムジンはボルテを花嫁にもらい、ココ・ナウルからケルレン河のみなもとにあるブルギ河に移り住みます。ボオルチェやソルカン・シラの二人の息子チンベとチラウン、ジャルチウダイという人物がテムジンが生まれたときに祝いに差し出した息子ジュルメらがあつまり、集落の形をなしていく。

それとともにタイチウトはじめほかの部族に狙われる可能性がでてきたため、父のアンダであったケレイト族の部族長トオリル・ハンに保護を求める。交渉はうまくいき、テムジンはトオリル・ハンと手を結ぶ。同時にトオリル・ハンの集落にいたジャムカと再会する。ジャムカはジャダラン氏の長になっていた。

ある日、メルキト族がテムジンの集落を襲い、ボルテが連れ去られる。
テムジンはトオリル・ハンとジャムカに援助を求める。
三人の軍はメルキト族をさんざんに打ち破り、ボルテを取り戻し一方的な勝利を得る。
それは初めてテムジンが目の当たりにした戦いで、禍根を立つために相手の部族を皆殺しにするものであった。テムジンは遊牧民が一つにまとまり、こうした戦いがなくなるとよいのにと考える。

戦いのあと、ジャムカとテムジンは一緒に集落を構えるが、ジャムカはもともと2万の部下をひきいいていたせいか、テムジンの部下も自分の部下のように扱いみなの不興を買います。こうした行動からジャムカよりテムジンの人望のほうが高まり、しだいに二人の仲はわるくなります。
テムジンはジャムカと別れてココ・ナウルに集落を構えます。メルキト族を破った英雄の評判をきいて、ボオルチェの弟、ジュルメの弟、さらには以前に一家をみすてた親類までもが集まってきます。

1189年(予測)モンゴル族の長老が集まって開かれるクリルタイという族長会議で、テムジンはモンゴル族の王、ハンに選ばれる。
ケレイト族のトオリル・ハンは容認するが、ジャムカは快く思わず、タイチウト族と組んで13のクリエンを率いてテムジンを攻めた。テムジンも13のクリエンで対抗するが、戦いはジャムカの勝利に終わり、ジェレネ峡谷に撤退する。
しかしジャムカは捕虜を鉄なべで煮たり、裏切り者の首を切り馬の尾につないでひいたりしたので、人望をうしない、テムジンの陣営には大量の投降者来るようになり、勢力は却って拡大していった。

このころ中国には女真族の国金と漢民族の国南宋が対立していた。
金は、北から遊牧民にせめこまれるのを恐れ、遊牧民同士が憎み合うような働きかけを続けていた。
1194年、金の死者耶律阿海がトオリル・ハンとテムジンを訪れ、ともにタタール人を討とうと持ちかけます。
テムジンは金の腹をよんでいましたが、父の仇をうつため参加。タタール族を破る。タタール人は金との交易でたくさんの財宝をもっていたが、それを見たテムジンは「この豊かさをすべてのモンゴルの民にわけてやりたいものだ」という。また、金から称号が与えられたとき、小躍りするトオリル・ハンに対して、「何の役にも立たない称号ではよろこばないが、父の仇がうててうれしい」という。これを聞いた耶律阿海はテムジンの部下になることを決意する。

その後も、トオリル・ハン(金からワン(王)の称号をえて、ワン・ハンに改名)や金と結び敵対部族を破ったテムジンはワン・ハンと肩をならべる勢力に成長する。
1201年テムジンに対抗するタイチウト族、オイラート族、ナイマン族などは、ジャムカをハンに選び、ジャムカはグル・ハンを名乗る。

ワン・ハンとテムジンの連合軍とグル・ハン率いる諸部族連合軍はタタールの遊牧地コイテンで激突。テムジン側が勝利をおさめ、テムジンは宿敵タイチウト軍を滅ぼすが、このときテムジンは毒矢にあたり、死にかける。テムジンを救ったのは中心ジュルメで命の危険も顧みないで毒の血をすいだしてくれたのだった。
また、矢をあてた兵士はのちに捕まって、テムジンの部下となりジュベ(矢)と名乗るようになる。

戦いに敗れたジャムカは、ワン・ハンやナイマン族をそそのかしてテムジンと戦わせるが、このころにはテムジンの陣営には、武将がそろいもはや対抗できるものはいなかった。ナイマン族がウイグル文字を使っていたことから耶律阿海の勧めもあり、テムジンはこれを取り入れることにする。
ジャムカも部下の裏切りにあい、テムジンのところに連れてこられる。
テムジンはもう一度協力しようというが、ジャムカは死を選び、テムジンは泣きがなら貴人の処刑(袋にいれて上を馬に走らせる)方法でジャムカを処刑した。

1206年草原のすべての部族があつまったクリルタイが開かれ、テムジンはハンに選ばれてチンギス・ハンと名乗る。
チンギス・ハンは遊牧民同士を戦わせてきた金を討つことにするが、その前に西夏に軍をだす。
4年かけて西夏の黒水城(カラホト)を責め落とし、首都康慶を取り囲む。西夏は降伏し王女を差出、貢物と軍事協力を約束する。チンギス・ハンは降伏をうけいれるが、裏切ったらただちに攻め滅ぼすと告げる。
1211年万里の長城を超えて金を責める。耶律阿海は同じ契丹人を説得して裏切らせ(この中に耶律楚材もいた)、戦いは有利にすすみ1214年には金は皇女を差出貢物をだすとして降伏する。チンギス・ハンは耶律阿海の妻子を返すことを条件に加えて耶律阿海の働きに報いた。
1215年には金の皇帝が都をぬけだして、南に逃げたので、抜け出した都を攻めて黄河から北の中国を手に入れる。

1218年国は広大になり、民を養うためにチンギス・ハンは交易によって富を得ようとするが、ホラズム王国に使者にだした使節団がオトラルという町で全滅。
1219年おこったチンギス・ハンはホラズム王国に遠征。オトラルついでサマルカンドを攻め落とすが、国王ムハマンドと王子ジェラール・ウッディンは西に逃げ出した。
二手に分かれたチンギス・ハンの軍は王と王子をおって、インダス川のほとりやイラン高原から南ロシア一帯まで遠征。王子は見事な戦いぶりがチンギス・ハンに認められインダス川で見逃され、王はカスピ海の小島まで逃げて1220年病死。

1226年にはホラズム攻略に加わらなかったとして西夏に軍を起こす。
しかし、康慶をとりかこんでいる最中に病にたおれ、オゴタイをハンに指名して、耶律楚材に政治の相談をするように、死んだことは棺がブルカン岳に帰るまで秘密にしろと言い残して、1227年この世を去る。
帝国はその後拡大をつづけ、4人の息子とその子孫がうけつぐがモンゴル高原以外の国はやがて滅んだ。

1990年、モンゴル人民共和国は、モンゴル・ウルスと国の名をあらため、チンギス・ハンの国がよみがえることとなった。

モンゴルの遊牧民独特の考え方があるので、直線思考の息子たちにはわかりにくかったかも。
兄弟や親せきなのに裏切ったり、また仲間になったりするからな。
チンギスハンは最初のうち戦いにはあまり強くないしね。
人望で仲間が集まって強くなるって、子供にはわかりずらいかな。



チンギス・ハン―モンゴル帝国をきずいた草原の勇者   学習漫画 世界の伝記

チンギス・ハン―モンゴル帝国をきずいた草原の勇者 学習漫画 世界の伝記

  • 作者: 古城 武司
  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 1992/11/20
  • メディア: 単行本



タグ:古城 武司
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マザー・テレサ 貧しい人のために生涯をささげた聖女 [人]

読み聞かせ時間 母が読んで15分。子供たちは今のところ読んでいない
ウケ度 わからない
印象度 まだ生きている人の伝記は初めて読んだかも(この本の出版時は存命でした)

マザー・テレサは、1910年はユーゴスラビアのスコピエ(当時、現在はアルバニア)に生まれました。本名はアグネス・ゴンジャといいます。
両親はアルバニア人で、父は建築家で、敬虔なカトリックでした。姉と兄がいて、温かい家庭であったようです。

9歳の時父親が政治活動に巻ききまれなくなります。
母親は「お父さんはこの世でのお勤めを終えて天国へ召された、人間には神様からあたえられたお勤めがあり、それを果たすために生まれてきた」と話します。

母親は手作りの刺繍製品を売って生計をたて、教会にも熱心に通いまいした。夜は必ず以下でロザリオの祈りをしたそうです。
少女のアグネスは近所の教会で「貧しい人病気に苦しむ人の中にこそ、神がおられる」という聖フランシスコの言葉に感銘をうけ、貧しいものの中に入って神の愛を伝える宣教師になりたいと思うようになる。
しかし、宣教師になるには修道女となって家族に会えないかもしれないと聞くと、心が揺れるのでした。

しかし、ある日神父様がインドで布教している友達からの手紙の話をすると、アグネスは「これが神に与えられたおつとめであり、自分はインドに行く」と決意します。
兄は士官学校のため家をでていたので、姉と母はもうあえなくなるかもと悲しみますが、アグネスが悩んでいたこともしっており、同意してくれます。

こうしてアグネスはインドに修道女を送っているという、アイルランドのロレット修道会に入るのでした。
1928年18歳のときでした。

修道会で志願生となり修道女としての生活と英語を学びます。1928年12月にはインドに向かいます。
ダージリンのロレット修道院で志願生の勉強と、英語、ヒンズー語ベンガル語の勉強を続け、
1929年5月テレサの修道名がつきます。テレサの名前はフランスの修道院で亡くなったシスターのもので、人のいやがるようなめだたない仕事をできるだけ楽しく喜んでいようと心に誓って生きた人だということです。

さらに2年間の修行と祈りの日々を過ごし、1931年5月に初請願をたてます。20歳でした。
3つの請願
・清貧・・・自分のものはお金も洋服もなにひとつもたないこと
・貞潔・・・心も体もつねに清らかであること
・従順・・・目上の者には素直に従うこと

初請願のあと、テレサはカルカッタのロレット修道院に付属している聖マリア女学校でチリと歴史を教えることになります。
27歳のとき終生請願をたて、正式にロレット修道院の修道女となります。学校でも生徒たちに「愛をもって接してくれる先生」として絶大な人気があり、校長になります。

実はダージリンも高級避暑地でインドに来たものの、テレサが貧しい人々を実際にみたのは、カルカッタの修道院の窓からでした。校長になってからはスラムを通って聖テレサ女学校の先生もするようになり、路上生活者をまじかにみるようになります。
「貧しい人々の中にはいっていって、神の愛を広める」というのが、テレサの願いでしたが、修道女は勝手に外にでることは許されなかったので、テレサは複雑な思いを抱えながら先生を続けます。

1939年ん第2次世界大戦が勃発。
インドではベンガル地方に飢饉が起き、カルカッタに大勢の人が流れ込みました。
インドは1945年に独立しますが、1946年にはヒンズー教徒とイスラム教徒の間に対立が広がり、カルカッタで4000人もの死者がでました。

テレサは心痛めますが、修道女には自由がありません。
1946年36歳のとい、年に一度ダージリンで祈りをささげる勤めのために汽車にのっていたとき、
神が自分に何を望んでいるか強く感じ「修道院の外にでて、神につかえるように貧しい人につかえる」と決心します。そしてまず、神父を通じて大司教。さらにはローマ法王に「神の命令です」と熱意を訴えます。

2年がかりで許可を得たテレサは1948年38歳の時、ロレット修道院をでて、まずパトナにあるアメリカン医療宣教修道会で医療を学びます。さらに外国人のままではインドの人々の気持ちがわからないからと国籍もインドにします。
テレサが熱心だったのと、周りの人たちがその熱心さを応援してくれたこともあり、4か月で医療の知識をマスターします。病院の同僚たちはお別れに丈夫な革のサンダルを送ってくれました。
ロレット修道院をでたときに黒い修道服から白い青三本線の修道服に着替え、このサンダルを履いたスタイルは、ノーベル賞の授賞式でも変わりませんでした。

こうして1948年、たった一人でスラム街の空き地に入ります。所持金は5ルピーでした。
さっそく青空教室をはじめ、子どもたちに読み書きを教えます。
聖マリア女学校の教え子たちは紙やいす、せっけんを差し入れてくれます。
また、家を貸してくれる人も現れました。
学校が終わると、スラムを歩き回って病気の人を手当てし、お金持ちの家を巡って寄付金集めをしました。
そして朝と夜の祈りという修道女の生活もつづけ、それはむしろくじけそうな心を支えてくれる元気の源であったとのちにマザー・テレサは語っています。

やがて聖マリア女学校の教え子たちも集まってきて、テレサは集まりに「神の愛の宣教者たち」という名前を付けます。この会では3つの請願の他に4つ目の請願をたてることにしました。「貧しい人のなかでももっとも貧しい人々への心からの献身」でした。
この会は1950年、ローマ法王から正式な修道会として認められました。修道女はわずか13人でした。、テレサは以降マザー・テレサとよばれます。

修道女たちは、青空教室やスラムの病人の世話など休む間もなく働き、時には果てしない仕事につかれることもありました。マザー・テレサは「何千何万というまずしいひとたちを考えるよりも、目の前のたった一人の人のことだけ考えましょう」と励まします。

その後も仲間は増えて28人なり、借りていた家が手狭になったころ、広い家を安く譲ってもらえることになり、現在も神の愛の宣教者たちの本部になっているところに移ります。ここはマザー・ハウスと呼ばれるようになります。

1952年、マザー・テレサは「死を待つ人の家」をつくることを思いつき、持ち前の行動力で実行に移します。
この家は路上で死にゆく人たちに家のなかで安らかな死を迎えてもらうのを目的につくられました。
そこには「すべての人間は神に望まれて生まれてきたのであり、人間として扱われるべき」という考えがあります。そのためなくなるとその人の宗教の方法で葬られ、カソリックの方法は押し付けませんでした。
借りたところがヒンズー教徒のカーリー寺院だったので、一時は住人ともめましたが、マザー・テレサの考えは徐々に浸透し、住人も協力してくれるようになりました。

1955年には、路上に捨てられた子ども、死を待つ人の家で生まれた子供などのために「孤児の家」をつくります。
中には家にたどり着いてすぐなくなる赤ん坊もいましたが、マザー・テレサは「たとえ一時間でも、人に愛されて亡くなることに意味がある」と言っています。
さらに里親制度を思いつき、実際に引き取らなくても援助だけしてくれる人を見つけるなど、孤児たちの未来への道筋もみつけていきます。
孤児の家にはマザー・テレサの考えに共鳴した人たちからの寄付があつまり、日曜を除く毎日給食が配られるようになります。
また、進んで障害児を引き取るひともでてきました。マザー・テレサの「お金ではなく、自分を与えなさい、自分がいたい思いをしてともにわかちあうとき苦しみは喜びにかわるのです」という考えに共鳴したのです。

1969年、ハンセン病患者のための「平和の村」を作ります。
当時ハンセン病ははだや肉がとけおち、神経もおかされる伝染性の怖い病気とされて、患者は差別されていました。そのため発病しても周囲に隠し悪化させる人も多かったのです。
しかし、マザー・テレサはいい薬ができて正しい治療をすれば治ることを知っていたので、ハンセン病患者の施設をつくることにします。
そこでは症状の軽い患者は働き、治療をうけるのです。
この村をつくるとき、マザー・テレサはローマ法王にいただいた車を賞品にしてくじをつくり、10万ルピーの車で50万ルピーを集めたといいます。

他にも飛行機にのったときには、余った機内食をみて、機内食を払下げてもらうことを思いついたりします。
1984年の段階で孤児の家で育った子供は1万1504人。大勢のボランティアに支えられ毎日50-60人の子どもが助けられています。

1981年、82年、84年には日本を訪問し、講演をおこなっています。
日本の印象としてはモノがあふれる豊かな国なのに、心は貧しく笑顔がさびしそうな国だと述べています。
また、「ゆたかな国のありあまったもののなかから与えていただきたいとは思いません、自分がいたい思いをしてくださるものなら、たとえ一切れのパンでも喜んでインドに持ち帰ります」と発言しています。
与えるとき大切なのはお金や品物の量ではなく、愛の量だからです。マザーは自分がいたい思いをして与えるほどゆたかで大きな愛であると言っています。

マザー・テレサの業績は広く認められ、数々の賞をもらい、1979年にはノーベル平和賞を受賞。
いつもの修道服にサンダルで授賞式に出席し、賞金をすべて貧しい人に与え、晩さん会は辞退して、その分のお金も貧しい人に与えたそうです。

伝記はここで終わりですが、マザー・テレサは1983年に心臓発作を起こし、ペースメーカーをつけるようになります。
1997年には転倒して首の骨にひびが入り、さらにマラリアにかかり、心臓の悪化もあり9月5日に87歳で他界した。葬儀はインドの国葬で行われる。

2003年には死後6年という異例の速さで列福されている。

全体にマザー・テレサは常に明るく、頭の回転がよくて、行動力のある人物だったらしく、漫画でもそんな描写がおこなわれています。そして何よりも神の愛(すべての人は望まれて生まれてきた愛されるべき存在)と、自分の使命(人間には自分のはたすべきつとめがある)を強く信じていたのが原動力だったようです。

また世界のために一人ひとりができることは何かと尋ねられると、「家に帰って家族を愛してあげてください」と述べたといいます。
私たちにできる援助はと問われると「身の回りでできることしてください、電車で老人に席をゆずったり、家庭や学校ですてきなことばをなげかけるだけでもいいのです。だれもがもっている愛の心を行動に移してほしい。あなたにあった人が前よりもっと気持ちよくなってかえっていけるように」と述べています。

修道女たちにも、最大の援助は笑顔であるといっています。

マザー・テレサ 貧しい人のために生涯をささげた聖女 (学習漫画 世界の伝記)

マザー・テレサ 貧しい人のために生涯をささげた聖女 (学習漫画 世界の伝記)

  • 作者: 高瀬 直子
  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 1992/03/19
  • メディア: 単行本



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アンネ・フランク 平和を願う人の心に生きつづける少女 (学習漫画 世界の伝記) [人]

読み聞かせ時間 小5男子、自分で読んで20分、小3男子興味なし
ウケ度 熱心によんでいました。
印象度 子どもが「僕ってユダヤ人じゃないよね」ときいてきました。

アンネ・フランクは1929年、ドイツフランクフルト生まれ。
家は裕福で、3つ年上の姉がいました。
アンネは活発な性格で、おしゃべりが大好き。体は少し弱かったけれど、友達もいて、小学校の高学年になるころには男の子にも人気があったようです。

1934年一家はドイツでのユダヤ人迫害を逃れてオランダのアムステルダムに移ります。
父親はそこで勤めをみつけ、アンネたちは、モンテッソーリ・スクールに通いました。
1938年には祖母もドイツからアムステルダムに移り住みます。

1940年ドイツはわずか4日でオランダを占領。
ユダヤ人に対する迫害は次第に激しくなり、学校は別にされ、商店やプールでもユダヤ人お断りの札がでるようになります。
アンネは祖母に「なぜこんなめにあうのか」と聞きます。祖母はユダヤ人の歴史のこと、耐えればいずれしあわせになれることを説きます。祖母は1942年に亡くなりました。

迫害はますます激しくなり、服にはダビデの星のマークを縫い付けるように命令され、さからうと捕まって収容所におくられるのでした。
1942年6月12日、アンネは13歳になり、父親から日記帳を送られます。アンネはこの日記帳にキティと名付け、以後ずっと日記を書き続けます。

1942年7月5日、とうとうナチス親衛隊から呼び出し状が届きます。一家は以前から父親が準備していた「隠れ家」にうつることになります。すでにアメリカが参戦していて、戦争がおわるまで隠れていればいいと思ったようです。
隠れ家は父親の会社の3階と4階で、会社の人たちが協力してかくまってくれました。
隠れ家には父親の友人ファン・ダーン一家3人と猫1匹。歯科医のデュッセル氏がきて、狭い中に大勢の人間が暮らします。みんなは日課をきめて過ごしていました。子供には勉強の時間もありました。
アンネは姉にくらべておしゃべりで活発なので、よく言葉づかいや、身の回りの整理などで同居の大人に小言をいわれていたようです。両親もそれをきいてアンネをしかるので、頭にくることもあったようです。
しかし、たまに外をのぞくと兵隊につれていかれる親子連れなどが見えて、アンネは生きて隠れていられるだけ幸せだと思い直すのでした。

隠れ家の生活は1年以上続き、靴や下着がすりきれ、もの不足になってきました。
オランダではナチスに対抗する人々の組織などがあり、アンネたちもおもに父親の会社の人たちの助けで生きていました。食料も運んでもらっていました。会社の人たちはこっそりクリスマスパーティなどを開いてくれれて、アンネたちには大きな支えになったようです。

1944年になると、ファン・ダーン一家の子供で16歳のペーターと、アンネは次第に親密になります。
父親は心配して、あまりペーターのところにいかないようにいいますがアンネは反抗します。しかし姉に諭され父親と和解します。

会社の倉庫に何度か泥棒がはいって、アンネたちが見つかりそうになったりしましたが、なんとか切り抜け、
1944年6月6日のDデー(ノルマンディー上陸作戦の開始日)を迎えます。
ラジオでそのことを知ったアンネたちは大喜びします。
アンネは隠れ家で2度目の誕生日を迎え15歳になります。
住人たちは連合軍の解放を心待ちにしながら暮らし、アンネたちも学校に戻れる日のために熱心に勉強していました。

1944年8月4日、通報者がいたためか、隠れ家にゲシュタポが踏込、アンネたちとかくまっていたコープハイスさんが捕まります。ゲシュタポはアンネの書き溜めた日記をかきまわします。アンネは日記を守るため、あえて見ないふりをしました。

捕まった住人たちはベステルボルクの収容所にいれられ、家畜用の列車で3日かかってアウシュビッツ収容所におくられました。
アウシュビッツでは男女にわけられたため、ペーターとはここで別れその後会うことはありませんでした。
女たちは髪をそられ、重い労働をさせられました。
アンネと姉はさらにベルゲン・ベルゼンに送られ、母親のエディト・フランクは正気を失い収容所でなくなりました。

ベルゲン・ベルゼンの収容所でアンネは思いがけずオランダの近所に住んでいたユダヤ人の友人、リースと再会します。しかしブロックが違ったので鉄条網ごしの再会でした。
リースは赤十字の援助物資のビスケットをくれます。アンネはそれを姉や収容所仲間にわけてあげました。

1945年5月ドイツは降伏し、収容所のユダヤ人たちは解放されました。
6月3日には、アンネの父はアムステルダムに戻り、かくまってくれた会社の人たちと再会します。

その後の消息で隠れ家の他の住人達も死亡が確認されました。少しおくれてアンネと姉は2月にベルゲン・ベルゼンでチフスでなくなっていることがわかりました。アンネの日記は会社の人が保管しておいてくれて無事でした。
父親がその日記を胸に抱いて涙を流すシーンで伝記は終わっています。


アンネ・フランク 平和を願う人の心に生きつづける少女 (学習漫画 世界の伝記)

アンネ・フランク 平和を願う人の心に生きつづける少女 (学習漫画 世界の伝記)

  • 作者: 森 有子
  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 1992/03/19
  • メディア: 単行本



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クララ・シューマン 愛をつらぬいた女性ピアニスト (学習漫画 世界の伝記) [人]

読み聞かせ時間 息子たちは誰も読まなかった。表紙が少女趣味?自分は15分程度で読めた
ウケ度 子どもが読んでいないのでわからないが、NHK朝の連続小説っぽい
印象度 人からみたら壮絶人生だが、本人はきっと幸せだったと思う

クララ・シューマンは1819年ドイツのライプチヒ生まれ。
父は音楽教師のフリードリヒ・ビーク、母はマリアンネでピアノが弾けて、夫の仕事を手伝っていました。
父はクララが生まれたときから一流のピアニストにすると決めていて、4歳でレッスンをはじめました。
父親はどうやらクララを一流のピアニストにしたあと、上流階級の仲間入りをさせ、金持ちや貴族と結婚させたかったようです。
指導事態は厳しいながらも情緒を大切にするもので、クララはピアノが大好きで、どんどん上達しました。
しかし、母親は独善的な夫についていけず、家をでていってしまいました。

クララは8歳で人前でピアノを弾くようになり、多くの演奏会に招かれるようになりました。
そんな中で出会ったのがロベルト・シューマンで、18歳でライプチヒ大学で法学を学んでいました。
ロベルトは音楽家か詩人志望でしたが、母親が「モーツァルトでさえも貧乏で苦労したのだから」と
法律家になるようにすすめ、親の希望に沿う形で法学を学んでいたのでした。

クララの父はロベルトの才能を認め、ロベルトはクララの家に出入りするようになります。
やさしい青年ロベルトにクララたち兄弟はよくなつき、兄のように慕うようになります。
クララたちに継母がきたときも、継母が音楽の素養がないことをクララが嫌いますが、ロベルトが「すぐれた芸術家は広い心でどんなひとでも愛せるようにならなければならない」と説得し、次第にうちとけるようになります。

クララは9歳でゲバントハウスで演奏会をひらき、天才少女ピアニストと絶賛されます。
このころロベルトはハイデルブルグ大学にいき、しばらくライプチヒを離れます。
しかし、ロベルトはどうしても音楽家になりたいと母親を説得、許可を得てクララの父に弟子入りしてもどってきました。

クララはパガニーニに演奏を聴いてもらい、「一流のピアニストになる」との言葉をもらい
演奏旅行で国王の前で演奏したり、ピアニストとしても名声を高めていきます。
演奏旅行中にはゲーテがクララを訪ねて、演奏を聞いたりしたこともありました。
ゲーテに称賛されたというので、ほかの場所でもスムーズに演奏会がひらけたといいます。
しかし、肝心のパリでの演奏会はコレラの流行のため、うまくいきませんでした。

演奏旅行中にロベルトは指を鍛えるレッスンをやりすぎて指をいため、ピアニストへの道はとざされてしまいます。クララはロベルトの曲はすべて自分が弾くとなぐさめ、二人は惹かれあうようになります。
ロベルトの母もクララに将来はロベルトと結婚してほしいと伝え、クララの心にはロベルトとの結婚の意思が芽生えます。二人は文通を続けます。

しかし、貧乏音楽家との結婚を望まない父は二人を引き離そうと、クララをドレスデンに留学させてしまいます。表向きは音楽理論と声楽の勉強でした。
父に反対されながらも、クララの実母や友人の助けをかりて二人は文通をつづけ、クララも演奏会でシューマンの曲を弾いて思いを表現していきます。
しかし、父親の説得はできず、ついに二人は裁判に訴えて結婚します。しかし、クララの父とは絶縁状態になりました。
ロベルトの母親もすでになくなっていて、二人はライプチヒのアパートで暮らし始めます。

最初のころは二人で歌曲をつくったり、シューマンの交響曲が絶賛されたり、幸せな生活をおくりますが、
繊細な神経の持ち主であるシューマンは次第に神経をすり減らし、作曲できない期間が増えていきます。
クララは子供の世話をしながら、夫の面倒をみて、さらに生活のため演奏会を行うなど、超多忙な日々が続きます。

ロベルトの病状は一進一退をくりかえしながら次第に悪化して、1854年には自殺未遂を測り、入院することになります。
ロベルトが入院した時点でクララには8人目の子供がおなかにいて、この子供が生まれた直後は働くとこもできず、万事休すだったところを、数年前に知り合いになったヨハネス。ブラームスが支え、(ブラームスを天才と紹介したのはシューマンだった)二人の友情は一生続くこととなります。

体が回復してからは演奏会を行い、病気の夫と子供の生活を支えたクララでしたが、1856年ロベルトは入院先の病院でなくなります。クララが36歳、長女真理恵が14歳、末のフェリックスは2歳でした。

夫を亡くしてからもクララは生活のため、そして夫の音楽を世界に広めるため、子供たちをベルリンの実母に預け、精力的に演奏会を行いました。
クララの精力的活動でシューマンの作品は「ドイツ国民のたましいのふるさと」と呼ばれ、盛んに演奏されるようになりました。

1878年59歳でフランクフルト音楽院の先生に迎えられます。クララとしては演奏会をつづけたかったのですが、ブラームスが「先生をやりながらも、演奏会はひらける」と説得したのです。
クララとしては演奏会でロベルトの曲を弾いているときが一番充実していたらしく、晩年まで演奏会を行っていました。

1896年脳出血で倒れ、子供に見守られながら76歳で亡くなり、夫ロベルトと同じ墓に葬られました。

クララは最初の職業としての女性ピアニストといわれています。


クララ・シューマン 愛をつらぬいた女性ピアニスト (学習漫画 世界の伝記)

クララ・シューマン 愛をつらぬいた女性ピアニスト (学習漫画 世界の伝記)

  • 作者: 高瀬 直子
  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 1992/03/19
  • メディア: 単行本



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