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マザー・テレサ 貧しい人のために生涯をささげた聖女 [人]

読み聞かせ時間 母が読んで15分。子供たちは今のところ読んでいない
ウケ度 わからない
印象度 まだ生きている人の伝記は初めて読んだかも(この本の出版時は存命でした)

マザー・テレサは、1910年はユーゴスラビアのスコピエ(当時、現在はアルバニア)に生まれました。本名はアグネス・ゴンジャといいます。
両親はアルバニア人で、父は建築家で、敬虔なカトリックでした。姉と兄がいて、温かい家庭であったようです。

9歳の時父親が政治活動に巻ききまれなくなります。
母親は「お父さんはこの世でのお勤めを終えて天国へ召された、人間には神様からあたえられたお勤めがあり、それを果たすために生まれてきた」と話します。

母親は手作りの刺繍製品を売って生計をたて、教会にも熱心に通いまいした。夜は必ず以下でロザリオの祈りをしたそうです。
少女のアグネスは近所の教会で「貧しい人病気に苦しむ人の中にこそ、神がおられる」という聖フランシスコの言葉に感銘をうけ、貧しいものの中に入って神の愛を伝える宣教師になりたいと思うようになる。
しかし、宣教師になるには修道女となって家族に会えないかもしれないと聞くと、心が揺れるのでした。

しかし、ある日神父様がインドで布教している友達からの手紙の話をすると、アグネスは「これが神に与えられたおつとめであり、自分はインドに行く」と決意します。
兄は士官学校のため家をでていたので、姉と母はもうあえなくなるかもと悲しみますが、アグネスが悩んでいたこともしっており、同意してくれます。

こうしてアグネスはインドに修道女を送っているという、アイルランドのロレット修道会に入るのでした。
1928年18歳のときでした。

修道会で志願生となり修道女としての生活と英語を学びます。1928年12月にはインドに向かいます。
ダージリンのロレット修道院で志願生の勉強と、英語、ヒンズー語ベンガル語の勉強を続け、
1929年5月テレサの修道名がつきます。テレサの名前はフランスの修道院で亡くなったシスターのもので、人のいやがるようなめだたない仕事をできるだけ楽しく喜んでいようと心に誓って生きた人だということです。

さらに2年間の修行と祈りの日々を過ごし、1931年5月に初請願をたてます。20歳でした。
3つの請願
・清貧・・・自分のものはお金も洋服もなにひとつもたないこと
・貞潔・・・心も体もつねに清らかであること
・従順・・・目上の者には素直に従うこと

初請願のあと、テレサはカルカッタのロレット修道院に付属している聖マリア女学校でチリと歴史を教えることになります。
27歳のとき終生請願をたて、正式にロレット修道院の修道女となります。学校でも生徒たちに「愛をもって接してくれる先生」として絶大な人気があり、校長になります。

実はダージリンも高級避暑地でインドに来たものの、テレサが貧しい人々を実際にみたのは、カルカッタの修道院の窓からでした。校長になってからはスラムを通って聖テレサ女学校の先生もするようになり、路上生活者をまじかにみるようになります。
「貧しい人々の中にはいっていって、神の愛を広める」というのが、テレサの願いでしたが、修道女は勝手に外にでることは許されなかったので、テレサは複雑な思いを抱えながら先生を続けます。

1939年ん第2次世界大戦が勃発。
インドではベンガル地方に飢饉が起き、カルカッタに大勢の人が流れ込みました。
インドは1945年に独立しますが、1946年にはヒンズー教徒とイスラム教徒の間に対立が広がり、カルカッタで4000人もの死者がでました。

テレサは心痛めますが、修道女には自由がありません。
1946年36歳のとい、年に一度ダージリンで祈りをささげる勤めのために汽車にのっていたとき、
神が自分に何を望んでいるか強く感じ「修道院の外にでて、神につかえるように貧しい人につかえる」と決心します。そしてまず、神父を通じて大司教。さらにはローマ法王に「神の命令です」と熱意を訴えます。

2年がかりで許可を得たテレサは1948年38歳の時、ロレット修道院をでて、まずパトナにあるアメリカン医療宣教修道会で医療を学びます。さらに外国人のままではインドの人々の気持ちがわからないからと国籍もインドにします。
テレサが熱心だったのと、周りの人たちがその熱心さを応援してくれたこともあり、4か月で医療の知識をマスターします。病院の同僚たちはお別れに丈夫な革のサンダルを送ってくれました。
ロレット修道院をでたときに黒い修道服から白い青三本線の修道服に着替え、このサンダルを履いたスタイルは、ノーベル賞の授賞式でも変わりませんでした。

こうして1948年、たった一人でスラム街の空き地に入ります。所持金は5ルピーでした。
さっそく青空教室をはじめ、子どもたちに読み書きを教えます。
聖マリア女学校の教え子たちは紙やいす、せっけんを差し入れてくれます。
また、家を貸してくれる人も現れました。
学校が終わると、スラムを歩き回って病気の人を手当てし、お金持ちの家を巡って寄付金集めをしました。
そして朝と夜の祈りという修道女の生活もつづけ、それはむしろくじけそうな心を支えてくれる元気の源であったとのちにマザー・テレサは語っています。

やがて聖マリア女学校の教え子たちも集まってきて、テレサは集まりに「神の愛の宣教者たち」という名前を付けます。この会では3つの請願の他に4つ目の請願をたてることにしました。「貧しい人のなかでももっとも貧しい人々への心からの献身」でした。
この会は1950年、ローマ法王から正式な修道会として認められました。修道女はわずか13人でした。、テレサは以降マザー・テレサとよばれます。

修道女たちは、青空教室やスラムの病人の世話など休む間もなく働き、時には果てしない仕事につかれることもありました。マザー・テレサは「何千何万というまずしいひとたちを考えるよりも、目の前のたった一人の人のことだけ考えましょう」と励まします。

その後も仲間は増えて28人なり、借りていた家が手狭になったころ、広い家を安く譲ってもらえることになり、現在も神の愛の宣教者たちの本部になっているところに移ります。ここはマザー・ハウスと呼ばれるようになります。

1952年、マザー・テレサは「死を待つ人の家」をつくることを思いつき、持ち前の行動力で実行に移します。
この家は路上で死にゆく人たちに家のなかで安らかな死を迎えてもらうのを目的につくられました。
そこには「すべての人間は神に望まれて生まれてきたのであり、人間として扱われるべき」という考えがあります。そのためなくなるとその人の宗教の方法で葬られ、カソリックの方法は押し付けませんでした。
借りたところがヒンズー教徒のカーリー寺院だったので、一時は住人ともめましたが、マザー・テレサの考えは徐々に浸透し、住人も協力してくれるようになりました。

1955年には、路上に捨てられた子ども、死を待つ人の家で生まれた子供などのために「孤児の家」をつくります。
中には家にたどり着いてすぐなくなる赤ん坊もいましたが、マザー・テレサは「たとえ一時間でも、人に愛されて亡くなることに意味がある」と言っています。
さらに里親制度を思いつき、実際に引き取らなくても援助だけしてくれる人を見つけるなど、孤児たちの未来への道筋もみつけていきます。
孤児の家にはマザー・テレサの考えに共鳴した人たちからの寄付があつまり、日曜を除く毎日給食が配られるようになります。
また、進んで障害児を引き取るひともでてきました。マザー・テレサの「お金ではなく、自分を与えなさい、自分がいたい思いをしてともにわかちあうとき苦しみは喜びにかわるのです」という考えに共鳴したのです。

1969年、ハンセン病患者のための「平和の村」を作ります。
当時ハンセン病ははだや肉がとけおち、神経もおかされる伝染性の怖い病気とされて、患者は差別されていました。そのため発病しても周囲に隠し悪化させる人も多かったのです。
しかし、マザー・テレサはいい薬ができて正しい治療をすれば治ることを知っていたので、ハンセン病患者の施設をつくることにします。
そこでは症状の軽い患者は働き、治療をうけるのです。
この村をつくるとき、マザー・テレサはローマ法王にいただいた車を賞品にしてくじをつくり、10万ルピーの車で50万ルピーを集めたといいます。

他にも飛行機にのったときには、余った機内食をみて、機内食を払下げてもらうことを思いついたりします。
1984年の段階で孤児の家で育った子供は1万1504人。大勢のボランティアに支えられ毎日50-60人の子どもが助けられています。

1981年、82年、84年には日本を訪問し、講演をおこなっています。
日本の印象としてはモノがあふれる豊かな国なのに、心は貧しく笑顔がさびしそうな国だと述べています。
また、「ゆたかな国のありあまったもののなかから与えていただきたいとは思いません、自分がいたい思いをしてくださるものなら、たとえ一切れのパンでも喜んでインドに持ち帰ります」と発言しています。
与えるとき大切なのはお金や品物の量ではなく、愛の量だからです。マザーは自分がいたい思いをして与えるほどゆたかで大きな愛であると言っています。

マザー・テレサの業績は広く認められ、数々の賞をもらい、1979年にはノーベル平和賞を受賞。
いつもの修道服にサンダルで授賞式に出席し、賞金をすべて貧しい人に与え、晩さん会は辞退して、その分のお金も貧しい人に与えたそうです。

伝記はここで終わりですが、マザー・テレサは1983年に心臓発作を起こし、ペースメーカーをつけるようになります。
1997年には転倒して首の骨にひびが入り、さらにマラリアにかかり、心臓の悪化もあり9月5日に87歳で他界した。葬儀はインドの国葬で行われる。

2003年には死後6年という異例の速さで列福されている。

全体にマザー・テレサは常に明るく、頭の回転がよくて、行動力のある人物だったらしく、漫画でもそんな描写がおこなわれています。そして何よりも神の愛(すべての人は望まれて生まれてきた愛されるべき存在)と、自分の使命(人間には自分のはたすべきつとめがある)を強く信じていたのが原動力だったようです。

また世界のために一人ひとりができることは何かと尋ねられると、「家に帰って家族を愛してあげてください」と述べたといいます。
私たちにできる援助はと問われると「身の回りでできることしてください、電車で老人に席をゆずったり、家庭や学校ですてきなことばをなげかけるだけでもいいのです。だれもがもっている愛の心を行動に移してほしい。あなたにあった人が前よりもっと気持ちよくなってかえっていけるように」と述べています。

修道女たちにも、最大の援助は笑顔であるといっています。

マザー・テレサ 貧しい人のために生涯をささげた聖女 (学習漫画 世界の伝記)

マザー・テレサ 貧しい人のために生涯をささげた聖女 (学習漫画 世界の伝記)

  • 作者: 高瀬 直子
  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 1992/03/19
  • メディア: 単行本



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