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クレオパトラ―古代エジプトの最後の女王 学習漫画 世界の伝記 [人]

読み聞かせ時間 小6男子自分で読んで20分
ウケ度 ふつう
印象度 エジプトの王家の継承制度って不思議

クレオパトラの生まれた王朝はプトレマイオス朝。
この王朝は紀元前332年エジプトを征服したアレクサンドロスの部下プトレマイオスが王の死後紀元前305年に開いたもの。この国の都がアレクサンドリアなのは王の名前をとったから。
というわけで、クレオパトラはもとはギリシャ系の家系で、家ではギリシャ語を話していた。

初代のプトレマイオスから200年、プトレマイオス12世の3人目の王女としてクレオパトラは紀元前69年に生まれた。クレオパトラの名も代々うけつがれて、正確には7世になる。
姉クレオパトラ6世、ベレニケ、妹アルシノエ、弟のちのプトレマイオス13世、プトレマイオス14世の兄弟がいました。
小さい時から利発で父王に愛され、父親は6歳のときに教育者アポロドロスをつけて教育をした。とても覚えが早く、特に語学は堪能で、地中海近辺でつかわれる言語はほとんどできたといわれています。
また、活発な性格で、覚えたエジプト語を使いたいとエジプト人の漁師の町へでかけ、あやうく襲われそうになって護衛に助けられたりしました。
スポーツ特に乗馬が得意でした。

エジプトは古来から広い肥沃な領土をもつ豊かで文化の栄えた土地でしたが、それをねらう周辺諸国に狙われるもの常でした。クレオパトラの時代、相手はローマでした。
ローマは王家の相続争いに口をはさみ、王家の直系はとだえていました。クレオパトラの父は前王のいとこにあたるのでした。王位をみとめてもらうため、ローマに金銭などをおくり力をかりたことからローマのいうなりという評判がたち、弟のキプロス王から援軍をたのまれても、ローマの顔色を窺って出兵しませんでした。ローマに責められてキプロス王は自殺し、エジプトでも王への批判が高まります。
反国王派はクレオパトラの姉ベレニケをかついで王を追い出し、王はローマに逃れます。

一時クレオパトラ6世が即位しますが、死亡したため、ベレニケはカッパドキアの大司教アルケラオスと結婚して王女となります。
しかし、ローマ軍の力をかりた王が帰還、打ち破られ夫とともに処刑されます。
このとき王を護衛してきたローマの騎兵長官アントニウスとクレオパトラは初めて会いました。

王座は取り戻したものの、ローマの力はますます強まり財務長官にローマ人の金融家が就任するほどでした。4年後プトレマイオス12世が死去。クレオパトラは遺言により弟のプトレマイオス13世と結婚して女王となり共同統治をするようになります。エジプトでは古くから兄弟婚は普通にありました。

幼い弟には3人の後見人、ポティノス、アキラス、テオドトスがつき、年長のクレオパトラが主に政治をみましたが、王の側は不満におもっていました。
ある日ローマで父王の支援をしてくれたポンペイウスの息子がひそかにエジプトを訪れ、カエサルに敗れてテッサリアに逃れた父のために援助を願い出ます。クレオパトラは恩を返すために承諾しますが、これに付け入った弟王側から、クレオパトラはポンペイウスの息子と組んで弟王を殺し、エジプトをローマに売るつもりだと中傷され、シリアに逃れます。

シリアで軍勢を整えたクレオパトラは弟王と対決しようとしますが、そのとき、プトレマイオス13世のもとにポンペイウスから援助を求められます。ポンペイウスを助ければカエサルに敵対することになり、ポンペイウスの仕返しも怖く、困ったプトレマイオス13世は側近の意見をいれてポンペイウスを暗殺してしまいます。
しかし、ポンペイウスの首を届けられたカエサルは涙を流して悲しみ、首をとどけたテオドトスは処刑されてします。

ポンペイウスを追ってアレキサンドリアに迫っていたカエサルは、クレオパトラに手紙を送り、弟王と仲直りさせるため、アレキサンドリアで会いたいといってきます。
このとき敵の軍を突破する必要があったクレオパトラは、アポロドロスに頼んで絨毯にくるまれてアレキサンドリアに向かい、絨毯からでてカエサルに面会します。

こうして弟より先にカエサルに面会したクレオパトラは自らの立場を説明し、カエサルの援助をとりつけます。
プトレマイオス13世は不満に思い、カエサルと戦いますが敗れ、黄金の鎧をつけたまま川に沈んで死んでしまいます。
こうして紀元前47年クレオパトラは弟のプトレマイオス14世と共同統治でエジプトの女王となりました。
妹のアルシノエは、プトレマイオス13世に味方して戦ったためローマに送られました。

戦いが終わった後もカエサルはエジプトにとどまり、クレオパトラとナイルを旅するなどしてすごし、二人の間にはカエサリオンのちのプトレマイオス15世が生まれます。
エジプトの富とローマの軍事六で世界にまたがる帝国をつくろうと語り合います。

カエサルはローマにもどり各地を転戦。めざましい戦績をあげ、ローマで凱旋式をします。この凱旋式にクレオパトラも招かれ、ローマに2年間滞在します。カエサルは共和制のローマで皇帝になろうとしますが、これを良く思わない元老院の一部が暗殺を企て実行します。そのなかにはカエサルが息子のようにかわいがっていたブルートゥスもいました。
カエサルを亡くし、クレオパトラはエジプトに戻りました。

このころ弟王プトレマイオス14世がなくなり、クレオパトラは息子カエサリオンと共同統治でエジプトを治めることになります。
いずれローマがエジプトに手をだしてくることを恐れたクレオパトラは、庇護者をもとめていました。
一方、アントニウスはカエサルの後継者とみなされていましたが、カエサルの養子になっていたオクタビアヌスと対立。カエサルの仇をうつまでは協力していましたが、アントニウスが仇をとり、いよいよ対立のときが近づいていました。しかし、アントニウスには軍資金がありませんでした。
こうして二人は互いをもとめ、協力関係を結びます。
このときクレオパトラがエジプトの富を示すために真珠を酢に溶かして飲んだというエピソードが残っています。

ふたりはアレキサンドリアで楽しい時間をすごしますが、紀元前40年アントニウスはパルティア軍をうちやぶるためシリアに遠征。そのままローマで政治の闘争にのめりこみ、ついにオクタビアヌスと協定を結ぶためオクタビアと結婚してしまいます。この間にクレオパトラは、アントニウスの子ども双子のセレネとヘリオスを生みます。
しかし3年後突如エジプトに戻ったアントニウスは、オクタビアを愛したことはない別れたといい、クレオパトラと結婚します。

紀元前36年、アントニウスはアルメニアで大勝利をおさめ、アレキサンドリアで凱旋式をします。このころにはクレオパトラには3人目の子フィラデルフォスが生まれていました。
しかし、ローマの将軍が外国で凱旋式をするとはとんでもないと批判がおこり、これを利用したオクタビアヌスは紀元前32年エジプトに宣戦布告。クレオパトラは、ローマの将軍をたぶらかした悪女として批判されます。

紀元前31年、アクティウムの海戦の最中、劣勢にたったアントニウスの軍中にいたクレオパトラは、エジプトを守るため脱出。しかもそれを見たアントニウスがクレオパトラの後を追い、軍は総崩れとなります。
エジプトに戻ったクレオパトラは、船を飾り立てアレクサンドリアに帰還。敗戦を隠そうとします。しかし、アントニウスは部下を見捨てた自分の行動を悔やむあまり酒におぼれ、オクタビアヌスに対抗する準備をしようとしません。
クレオパトラは、一人で準備をしますが、世界最強のローマ軍とでは結果はわかりきっていました。

紀元前30年、カエサリオンが17歳の誕生日を迎え、盛大なお祝いがおこなわれました。
クレオパトラは、この機会に王位をカエサリオンに譲り、アントニウスを引退させることでローマと和平を結ぼうとしますが、オクタビアヌスはあくまでアントニウスの命を求め、それを拒否したため交渉は決裂します。

これを知ったアントニウスは奮起しますが、すでにアクティウムで生え抜きの部下は失っており、エジプト軍を率いてはローマの敵ではありませんでした。
戦いのさなかクレオパトラが霊廟に入ったときいたアントニウスは、てっきりクレオパトラが死んだものと思い、自殺します。

クレオパトラはアレキサンドリアに入ったオクタビアヌスに降服し、子どもたちのことを託します。
オクタビアヌスは戦利品としてクレオパトラをローマに連れ帰ろうとしますが、それを察したクレオパトラはアントニウスの葬儀のあと、毒蛇に体をかませて自殺しました。
これでプトレマイオス朝は滅亡したのでした。

今でもローマではクレオパトラは悪い女ということになっているらしい。
しかしオクタビアヌスの方もかなり冷酷で、紅海に逃れたカエサリオンを母親の名前をつかっておびき出して殺し、王宮の財宝を船につんで帰国したということです。
カエサリオンは一応兄弟にあたるのにね。


クレオパトラ―古代エジプトの最後の女王 学習漫画 世界の伝記

クレオパトラ―古代エジプトの最後の女王 学習漫画 世界の伝記

  • 作者: 千明 初美
  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 1995/11/17
  • メディア: 単行本



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ファーブル 『昆虫記』を書いた虫の詩人 [人]

読み聞かせ時間 子どもたちは読まなかった。大人が読んで15分程度
ウケ度 虫はあまり好きじゃないせいか、よんでくれなかったな
印象度 昆虫記を読んでいたので、あまり目新しいことはなかったが、あらためて元気な人だなあと思った。

1827年フランスの南部のサン・レオン村で生まれたアンリ・ファーブルは、家が貧しかったため3歳で祖父の家に預けられることになりました。大きな祖父母の家で大勢の従姉妹と大自然にかこまれてのびのびと育ちました。
夜暖炉の前で祖母が話してくれるお話が大好きで、特にオオカミの話をせがんでいたといいます。

6歳の時学校に入るためにサン・レオン村に戻ります。名付け親であるリカール先生の学校に通いABCを習いました。学校は先生の家にあり、しょっちゅう動物の出入りするのどかなものでした。
ある日家の仕事を手伝っていたファーブルは石の中に光るものをみつけ持って帰りますが、水晶や雲母アンモナイトの化石などでお金にはならず両親におこられたといいます。

9歳のとき大都市ロデーズに引越し両親はカフェを始めます。アンリは司祭のミサの手伝いをするかわりに学費をただにしてもらい、王立学院に通うことになります。成績は優勝で、休みには友達と川や牧場で元気に遊ぶ生活でした。

両親のカフェはうまくいかず、引っ越しが続き、アンリは14歳で学校をやめて働きました。しかし本が大好きでお昼もたべずにお金をためて買っていたということです。
1839年アンリはアヴィニヨン師範学校の試験をうけ一度の試験で1番の成績で合格しました。まずしい学問好きの少年にとって師範学校の給費生になることだけが、唯一の学問を続ける道でした。

在学中も3年分の勉強を2年で終わらせて教員の免状をとってしまいました。
勉強もしたましたが、昆虫の観察も大好きでした。
卒業のお祝いに化学の実験で酸素を発生させる実験がおこなわれ、詰めかけた生徒たちがけがをするという参事がありました。しかし、アンリはかえって化学への興味をかきたてられたといいます。

1842年カルパントラの小学校の先生になったアンリはこの実験を行い成功させました。
また実験だけでなく教え方もうまく評判の高い授業をするようになりました。
このころ野外実習で生徒が蜂の巣から蜜をストローですっているのをみて、ハチに興味をもち給料の1か月分をはたいて「節足動物誌」という本を買いました。そして昆虫学のことを知りました。

ファーブルには20歳で結婚したマリーという教師の妻がいて、こどもが二人いましたが二人とも小さいうちに亡くなりました。ファーブルはいっそう勉強に打ち込み独学で数学と物理の博士号を取得、25歳のときコルシカ島の高等中学の教師になります。

コルシカ島ではめずらしい自然をきにいって観察や収集を続けていました、このとき島にきていたトゥルーズ大学のモカン・タンドンと出会い、博物学の講義をうけ、博物学をやるようにすすめられます。しかし数学も好きだったファーブルは悩んだといいます。

1853年ファーブルは物理の教師としてアヴィニヨン師範学校にもどりました。
ここで以前買った「節足動物誌」の著者レオン・デュフールの本をみつけ、昆虫の生態研究という学問分野があることを知ります。

デュフールの本にでてきたタマムシツチスガリというハチがタマムシを狩り、幼虫の食料として土にうめておくが、タマムシが腐らないという記述を読み、自分でその謎をとこうと自然観察を続け、ついにハチがゾウムシの神経を刺してうごけなくすることを突き止め論文を発表します。この論文でフランス学士院から実験生理学賞与えられました。自分の説を覆されたデュフールもファーブルに手紙をおくり素晴らしい発見だとよろこんでくれました。

昆虫の生態学を続けることにしたファーブルでしたが、教師には自由に観察をする時間があまりないのを不満に思っていました。しかし教師の仕事も熱心につづけ生徒には慕われていました。
ファーブルは大学の先生になることを希望していましたが、学校を訪れた文部省の視学官に大学の先生の給料が少ないことをきかされ、生活を安定させるためアカネの研究に力をいれることにします。アカネから布を染めるアリザリンという染料を簡単にたくさん取り出す研究をしてお金を手に入れようとしたのです。
また、小中学生の科学読み物も書いていました。

研究の最中にファーブルのもとにはパストゥールが訪れますが失礼なものいいで、すぐ帰ってしまったいいます。
一方で文部大臣のヴィクトール・デュリュイ氏が訪れ、なにもねだらず黙々と研究するファーブルをほめたたえることもありました。しかしファーブルは人前にでるのがきらいで、あまり喜ばなかったいいます。

1866年42歳のときアカネの研究は一旦成功しますが、すぐに人口合成の方法が開発され、お金儲けはできませんでした。

44歳のころパリの出版社社長シャルル・ドラグラーヴのところから出した科学読み物が好調で、ファーブルはお金を稼ぐためにそこに力をいれるようになる。

教えるのがうまいファーブルは市民対象の公開講座の先生も務めるが、大臣と知り合いなのを鼻にかけているとか、女性の前で花の受精の話などけしからんなど、陰口をたたく人もいました。
学校でも昆虫の観察のために牛の糞をひろうファーブルを学校にふさわしくないなどどいう人がでて、ファーブルはいやになって27年務めた学校を退職します。退職金さえもらえませんでした。

1870年ファーブル一家はオランジュに引越し、ファーブルは本の執筆で妻と5人の子どもを養うことにします。生活は貧しいなかでも順調でしたが、一番ファーブルに似て昆虫の観察が大好きだった息子ジュールが16歳の若さでなくなり、失意のあまりファーブルも肺炎にかかってしまいます。一時は命も危なかったファーブルですが病気から立ち直ると昆虫記の執筆に没頭します。

オランジュの家では大家さんが家の前の並木をきってしまうという事件がおき、自然はそのままがいいという思想をもつファーブルは自分の家と庭をもつことを決意。55歳のときセリニュン村に1軒屋を手に入れます。この庭をアルマス(荒地)と名付けたファーブルはここで昆虫の観察と昆虫記の執筆に没頭します。

しかし、昆虫記はそれまでの読み物より売れず、専門家からは科学の世界に文学を持ち込んでいると批判され、あまり売れませんでした。弟子からは挿絵をいれるようにすすめられますが不正確なものはいれられないと断りました。
しかし、ファーブルを尊敬する人々に支えられファーブルは結婚当初から使っていたぼろぼろの机で執筆をつづけました。執筆中は騒音をきらいとても集中していたといいます。

1885年マリーがなくなり、ファーブルは40歳も年下のジョゼフィーヌと結婚しました。料理が上手で明るい女性でファーブルとの間に3人の子どもがうまれました。ファーブルは子供たちを自分で教育しました。
1889年にはファーブルはフランス学士院からプチ・ドルモワ賞をうけますが、10巻出版された昆虫記はあまり売れず、年金にたよる貧しい生活をしていました。

ファーブルを尊敬しのちに伝記を書いた医師のルグロはファーブルのために式典を計画し実現しました。しかしファーブルは人前にでるのが嫌いでいやがっていたといいます。
式典のおかげで昆虫記は注目され、レジオン・ドヌール勲章をうけたファーブルは暮らし向きが楽になります。しかし、ファーブルが貧乏だと思い込んだ人々から寄付が届き続け、ファーブルは礼状をそえておくりかえしました。

有名になることでファーブルを訪ねる人が増え、ついにはポアンカレ大統領までくるようになりました。近所の人たちはファーブルがエライ先生と知って驚いたと言います。しかし、当のファーブルは庭があらされると喜ばず、新聞広告までだして「もう長くは生きないのでほっておいてくれ」といっていました。

晩年には1912年に妻のジョゼフィーヌを亡くし、第一次世界大戦に息子のポールが行くことになり心を痛めます。

1915年、尿毒症にかかったファーブルは家族と友人にみとられて91歳の長い生涯をとじました。
アルマスの庭はパリ自然史博物館の分館として保存されることになりました。

昆虫記は観察の様子やそこでわかったことをつづったものですが、批判や風刺を交えた内容で、ファーブルの人柄がよくでています。昆虫についてはファーブルはすばらしい能力があるが、あらかじめ組み込まれた命令(本能)以外のことはできない存在だといっています。


ファーブル 『昆虫記』を書いた虫の詩人 (学習漫画 世界の伝記)

ファーブル 『昆虫記』を書いた虫の詩人 (学習漫画 世界の伝記)

  • 作者: 高瀬 直子
  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 1993/03/19
  • メディア: 単行本



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学習漫画 世界の伝記―集英社版 (〔29〕): レオナルド・ダ・ビンチ [人]

読み聞かせ時間 小6男子自分でよんで20分
ウケ度 読んだあと一生けん命説明してくれていたからおもしろかったらしい
印象度 筆の遅い人だったんだなあ

レオナルド・ダ・ビンチは1452年4月15日にフェレンツェから西に40キロほどはなれたビンチ村でうまれました。
父親は村の地主の息子で公証人をしている人でしたが、母親は農家の娘で二人は周囲の反対で結婚していませんでした。レオナルドは父親の家に引き取られ継母に育てられ、実の母親は別の人と結婚しました。

10歳ごろ学校に入りましたが、ラテン語や算数の点数が悪く、一方絵を描くのは得意で大好きでした。また左利きでした。

ある日父親が知り合いから頼まれた盾の絵をレオナルドにかかせたところ、あまりに見事だったことから芸術家にすることにします。

1466年14歳のとき、フィレンツェのベロッキョ工房に弟子入りします。このころ芸術家をめざすものは13-15歳くらいまでマエストロ(親方)と呼ばれる先生の工房で修業するのが習わしでした。

工房の中でも自分の手足の方をとるなどして筋肉のスケッチをするなど観察をもとにした緻密な絵の基礎を築いていました。

15世紀イタリアは小国にわかれその中でもフィレンツェは芸術の都としてしられていました。ルネサンス(神中心の文化から人間中心の自由な文化への運動)の中心地でダンテ、ボッカチオ、ボティチェリらがいました。芸術家は銀行家のメディチ家の保護のもと活動していました。

20歳の時マエストロになったレオナルドは、ベロッキョの仕事を手伝って彼の作品に天使像を描きました。ベロッキョはあまりの出来栄えに自分はもう絵はかかなくなったといわれています。
またベロッキョのダビデ像のモデルがわかいころのレオナルドだといわれています。

1477年25歳で自分の工房をもちます。絵や彫刻だけでなくリュートを引かせても抜群の万能の天才という評判をもっていました。サン・ドナート修道院の祭壇画として東方三博士礼拝図を制作していましたが、なかなか仕事がすすまずせかされていたようです。結局この仕事は完成しませんでした。
一方で、絞首刑にされた死体や、死刑囚の解剖をスケッチにするなど、人体に対する緻密な観察は続いていました。

1482年れミラノ公、ロドビコ・スフェルツァの招きでミラノに向かいました。しかしミラノ公はリュートが聴きたいと言って絵や彫刻をつくらせてくれませんでした。そこでレオナルドは長い自薦状をつくって送りました。その中で、自分は画家であり、他に建築もでき、大砲や兵器をつくり、水道施設の設計もできる、彫刻もできるので、ぜひミラノ公の父の青銅の馬の彫刻をつくらせてほしいといっています。そこでミラノ公は青銅の騎馬像をつくらせることにしました。同じころ、ミラノのサン・フランチェスコ聖堂の祭壇画もたのまれていました。

しかし持ち前の探求精神のため、スケッチや構想に膨大な時間がとられ、騎馬像に至っては当時の鋳造技術では制作不可能な構図に挑んでいたのでなかなか仕事はすすみませんでした。
また、ミラノに疫病がはやると、町を清潔にしたいと、町の設計図を作ってミラノ公にみせたり(ミラノ公はこんなものより騎馬像を早く作れといった)、空飛ぶ機械や歯車を使った機械、大がかりな舞台装置設計をしたり、寄り道が多くなかなか進みませんでした。
騎馬像のためには馬の解剖もしています。

このころ実の母が未亡人になり困窮していると聞いたレオナルドは母親をミラノに引き取ります。しかし周りから母親だと知られないようにしろといわれ、家政婦として家におくことになりました。

騎馬像の模型が公開されるとレオナルドの名声はイタリア中に広がりました。
このころサンタ・マリア・デレ・グラツェエ修道院の食堂の壁画を頼まれ「最後の晩餐」の制作にかかります。同じ食堂にモントルファノが「キリスト磔刑図」を描くことになっていました。

「最後の晩餐」でもレオナルドは新しい構図、そして絵具も油絵具を使うという新しい試みをしていました。同時に騎馬像もつくっていたのでてんてこ舞いだったようです。しかし騎馬像のほうはいよいよ鋳造という段階でフランスとの戦争が発生。集めた1トンの青銅は武器に流用されて像はつくれませんでした。
レオナルドは最後の晩餐に全力をそそぎました。

このころミラノ公はフランスとの戦争が長引いて財政的に苦しくなり、レオナルドたちの給料も滞るほどでした。レオナルドは給料の代わりにブドウ園をもらうことになりました。
1499年フランスがミラノを落とし、ミラノ公が亡命。レオナルドは芸術から科学へと研究をすすめ、人体や地質、光学など興味のままに進めていました。
しかし、フランス軍が騎馬像を破壊するのをみてフィレンツェにもどる決心をします。

1500年にフィレンツェに戻りますが、町はメディチ家が去ってから活気をうしないつつありました。しかし、ラファエロやミケランジェロらがいて、それなりに活気のある町だったようです。ここで父親の家の1階に工房をもちますが、幾何学や築城法の研究に没頭し、お金にはならなかったようです。

そんなとき、ロマーニャ公、チューザレ・ボルジアの誘いで軍事顧問となり、土木工事や武器の製造などを行いました。
その後フィレンツェの頼みでピサをせめおとすためにアルノ川の流れを変える工事をすることになりました。
また、このころフィレンツェの富豪フェランチェスコ・デル・ジョコンドの依頼で夫人のリザの肖像画を描きます。これが有名なモナ・リザといわれています。完成までに時間がかかっているあいだにリザ夫人がなくなり、レオナルドの手元に絵がのこりました。レオナルドは死ぬまでその絵をもっていたといいます。その後遺言でフランス王に譲られ現在はルーブル美術館にあるというわけです。
1505年、フィレンツェ政庁の大会議場の壁画を依頼され「アンギアリの戦い」を描くことになります、反対の壁はミケランジェロが「カッシーナの戦い」をかくことになり、二人の対抗心はもえあがります。しかし、ミケランジェロは途中で法王ユリウス2世の墓をつくるためにいってしまい。レオナルドのほうも油絵具が流れるというアクシデントがあり両方とも壁画は完成しませんでした。

1506年、レオナルドはミラノを占領しているフランスのミラノ総督シャルル・ダンボアワーズの招待で、3か月の休暇をとりミラノに向かいます。そこで引きとめられ王室づきの画家と建築技師に任命するといわれ、そのままとどまることにした。ブドウ園も返してもらった。フィレンツェ政庁への罰金はフランスが払ったという。
ミラノで「岩窟の聖母」を描いたり、解剖学の研究と解剖図作成、アルプス登山などをして過ごした。

1512年ローマ法王はベネツェア・スペインと同盟を結び、フランスをミラノから追い出すべく軍隊を送り、フランス王ルイ12世は撤退しました。
ミラノにいたレオナルドは弟子のすすめもあって、当時芸術の中心地となりつつあるローマへいくことにします。

ローマでは法王の弟ジュリアーノ・デ・メディチの世話でバチカン宮殿内に落ち着きましたが、仕事の依頼はありませんでした。
結局フランスの新しい王フランソワ1世の誘いでフランスに向かう。

フランスではアンポワーズ郊外にあるクルー城を与えられるが、老齢のためもあり手しびれほとんどデッサンもできなかったといわれている。
1519年遺書をかき、5月2日にクルー城で67歳で亡くなった。葬儀はフランスで行われた。

完璧主義で、興味の幅がひろく、器用な人だったようだ。ただ完成した仕事はあまりなかったみたいだね。


学習漫画 世界の伝記―集英社版 (〔29〕): レオナルド・ダ・ビンチ

学習漫画 世界の伝記―集英社版 (〔29〕): レオナルド・ダ・ビンチ

  • 作者: 古城 武司
  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 1993/03/19
  • メディア: 単行本



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ニュートン―万有引力の法を発見した科学者 学習漫画 世界の伝記 [人]

読み聞かせ時間 大人が読んで15分、子どもたちはなぜか興味を示さず
ウケ度 わからない
印象度 ニュートンの発見のほとんどは人生の前半

1642年のクリスマス、アイザック・ニュートンはイギリスのロンドンから北へ200キロの静かな農村ウールスソープに生まれました。父親は生まれる3か月前に亡くなっていました。ニュートンの名前は父親と同じです。

2歳の時、母親は再婚して家をでていき、ニュートンは祖母と暮らすようになります。
小学校のころはそれほど勉強はできませんでしたが、水時計を作ったりする工作の得意な子供でした。

小学校をでると村をでて、グランサムのキングス・スクール(王立の中学校にあたるもの)に通いました。
勉強熱心で無口で工作が得意な青年でした。村の凧揚げ大会で優勝したこともありました。
しかし、母親が再婚先で夫をなくしウールスソープに戻ることになり、母の連れ子が3人もいるため、ニュートンは学校をやめて故郷にもどり農場をやるようになります。

しかし、農業に身がはいらず、熱心に実験をするニュートンを見て母親と、母親の弟であるエスカーおじさんはニュートンをキングス・スクールに戻してくれます。キングス・スクールの校長も熱心にすすめたといいます。

1661年キングス・スクールを優秀な成績で卒業し、ケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジに進学しました。
ここで準免費生(チューターの手伝いをひきうける学生)となり、熱心に勉強をします。特に天文に興味があったようですが、それを勉強するためには数学が必要とわかり、学ぶ分野は数学・光学・幾何学・神学・ラテン語と広がっていきました。
有名な数学者アイザック・バローにも気にいられ光学や数学の研究をしていました。

しかし1665年ロンドンからケンブリッジにかけてペストが大流行。一時ウールスソープにもどります。
このとき「微分、積分、二項定理」といった数学の発見
万有引力の法則のもとになる、月は地球に落ちているとう着想、そしてその力は距離の2乗に反比例するという理論を思いつく。
プリズムを使って光を色で分ける方法と、それを応用した反射望遠鏡の発明など、奇跡の2年間といわれる成果を残します。

1667年トリニティ・カレッジのフェロー(特別研究員)になり、年に100ポンドをもらえることになる。
母親に送金を申し出るが、母親は研究に使うようにと断る。
ニュートンは研究室にこもって研究に没頭する。このころ、数学や光学の他に星占いや錬金術にもこっていたという。
一方でバローに認められ、27歳でケンブリッジの2代目数学教授になる。
しかし講義は難しくて評判は悪かった。けれど本人は受講者がいなければ家に帰って研究ができるとよろこんでいたらしい。
とにかく研究に夢中で、ゆで卵をつくろうとして間違えて懐中時計をゆでてしまったりしたらしい。

このころ、ボイルやフックらが「無形の大学」とう小さな集まりをつくり、それが王立協会となった。
ニュートンも1672年29歳のとき会員となっている。
ここで反射望遠鏡が話題になったとき、ニュートンは「反射望遠鏡よりすごい研究もしているのに反射望遠鏡だけで騒がれるは残念だ」といったという。

王立協会では光が粒子であるか波であるかでフックと論争し、もう少しで王立協会をやめそうになります。
フックは社交的でひらめき型、ニュートンは人づきあいが苦手でじっくり型と性格もあわなかったようです。
フックとはケプラーの第一法則の数学的証明でも対立し、それを証明する論文「運動について」を発表。
これはのちに「プリンピキア」という本にまとめられ、出版される。

フランスではデカルト派が、間に運動を伝える物質がないのに働く力=引力は存在しないといって反論。
しかしニュートンは、引力がなにかはわからないが神のしわざかもしれないといって反論しなかった。そして自分の説は実験科学で証明されているといった。

プリンピキアのあとは科学者としてはあまり活躍せず、1688年には国会議員になり、1696年には造幣局の役人1699年に長官。60歳で王立協会の会長となる。

一方でフラムスティードやライプニッツらと学説や、発見がどちらが先かなどでの争いはたえなかった。
ニュートンは自身が短期で負けず嫌いな性格であったためともいわれている。

1722年病気で倒れたが、駕籠などで王立協会へでていたという。
1727年84歳で亡くなった。

息を引き取る直前に「世間が私をどうみているかしらないが、私は自分を波打ち際で遊ぶ一人の子どもにすぎないと思っている、心理という大きな海はいまだ発見されないまま目の前にはてしなく広がっているというのに、私はとりおり美しい貝殻や小石をみつけては無邪気に喜んでいる」と書き残している。


ニュートン―万有引力の法を発見した科学者 学習漫画 世界の伝記

ニュートン―万有引力の法を発見した科学者 学習漫画 世界の伝記

  • 作者: よしかわ 進
  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 1993/03/19
  • メディア: 単行本



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アインシュタイン―相対性理論を生みだした天才科学者 [人]

読み聞かせ時間 大人が読んで20分
ウケ度 またしても子どもたちが読んでいないのでわからない
印象度 ちょっと変わっている部分が思い切って端折ってある。

1879年、統一されたばかりのドイツ南部の町ウルムで、アルベルト・アインシュタインは誕生した。
父親は電気工事店を営むユダヤ人のヘルマン・アインシュタイン。
1歳の時、一家はおじのヤコブとともにミュンヘンに引っ越した。
父親とおじは、電気関係の小さな工場を経営した。
小さいころは言葉の遅い子で両親は心配したという。
父親は「しゃべるより、考える方が得意なんだ」と母親はなだめたという。

父親やおじに質問しまくりながらアルベルトは大きくなりました。
小学校では暗記が不得手で成績はそれほどよくはありませんでした。
9歳でギムナジウム(小学校と中学校をあわせたような学校)に進学し、このころ、おじからユークリッド幾何学の本をもらい、数学のおもしろさに目覚めたという。
一家はユダヤ人の家の習慣で週に2回貧しい学生を夕食にまねいてあり、彼らからも物理や天文などの本をよませてもらい、科学への興味を強めていった。
一方で軍隊は嫌っており、友達が軍隊のパレードに誘ってもいかなかった。

父親の工場は経営がうまくいかなくなり、一家はミラノに越すが、15歳のアルベルトは1年後にギムナジウムの卒業を控えていたので、下宿して残ることにする。しかしホームシックにかかり学校を中退して(大学をあきらめ)ミラノへ行く。

父親は大学へいくようにすすめ、アルベルトはスイス連邦工科大学を受験するが不合格になる。しかし数学と物理で最高点をとっていたのを学長が認め、アーラウ州立グムナジウムを紹介してもらい、1年間勉強をする。
このころ、自分が光の速さで光を追いかける夢をみて、このとき光が目に届かないので、何も見えなくなるのかなど思考実験をして相対性理論の素になる着想を得る。

翌年スイス連邦工科大学に入学、マルセル・グロスマン、フリードリヒ・アドラー、ミケーレ・ベッソー、ミレーバ・マリクと友達になる。
ミレーバとは親しくなり、結婚の約束をする。

1900年大学を卒業したが、数学か物理を教えたいという夢はかなわず、落胆していると、マルセルが父親のくちききで、ベルンの特許局の仕事を紹介してくれる。
特許局での仕事の何よりよかったのは、研究の時間がたっぷりとれることで、アルベルトは通勤の道や公園、特許局のデスクやアパートなどで研究をした。
ミレーバと結婚。
1905年26歳のときには、光を粒子と考える光の発生と変換に関する発見的な見方について」という漁師力学分野のさきがけの論文を発表。のちにノーベル賞をとる。さらにブラウン運動が水の分子の運動であること、光の速さが絶対であるとき、時間と空間が相対的である、そして質量とエネルギーは等価であると結論する。この年を「アインシュタインの奇跡の年」と呼ぶ。

最初はなかなか認められなかった特殊相対性理論だが、ポアンカレやキュリー夫人が認めるようになると、世間も少しづつ変わり、アルベルトはベルン大学に物理学を教えるようになる。
30歳の時にはチューリヒ大学で助教授になる。
1911年には歴史あるプラハ大学に招かれる。この年、科学者の集まる会議がベルギーのブリュッセルで開催され、アルベルトも出席、キュリー夫人らの大科学者と会う。
この年には光が重力で曲がるという説を発表する。


プラハではチェコ人とドイツ人の対立が深まっており、戦争を嫌ったアルベルトは、母校スイス連邦工科大学の正教授に招かれてチューリヒに戻る。ここでマルセルと再会。数学分野でマルセルの力を借りて一般相対性理論を完成させる。

1913年、ドイツからプランクとネルンストがアルベルトを訪ね、ベルリン大学の教授にむかえ、プロシア科学アカデミーの会員になってくれと伝える。
会員になることは科学者にとって特に名誉なことであった。
しかし、ドイツがきらいなアルベルトは迷った。結局マルセルの勧めでベルリンに行くが、ミレーバはベルリンが肌にあわず、チューリヒに戻ってしまう。

ドイツ国内では軍備の拡張が進み、アルベルトは科学が戦争に利用されることを恐れる。
1914年第一次世界大戦勃発。アルベルトは反戦姿勢をみせ、ヨーロッパの平和と統一をよびかける「ヨーロッパ人への宣言」に署名する。

1916年一般相対性理論が完成。1919年の日食の観測で証明できることがわかる。
1917年アメリカが参戦。このころアルベルトは胃潰瘍を患うがドイツの病院は兵隊でいっぱいで入院できなかった。自宅で療養する彼をいとこのエルザが看病し、二人はのちに結婚する。
戦争は終結し、日食の観測から一般相対性理論が証明される。

アルベルトの相対性理論は新聞や雑誌にとりあげられ、アルベルトは有名人になる。
このころ日本の出版社の発案でアルベルトを日本に招く計画が持ち上がり1922年に実現。
日本に来る途中でノーベル賞の知らせが届く。賞金はすべてミレーバに送ったという。
日本では各地で公演し、大人気だったという。

1923年ドイツに戻るが、ナチスが次第に台頭。ユダヤ人迫害が始まる。アインシュタインは平和運動に協力するが1928年にスイスで倒れ、心臓肥大症と診断され療養する。
1929年には「重力と電気の統一場理論」を発表。注目される。

1930年アメリカのカルフォルニア工科大学客員教授として3年間の約束で渡米。
アメリカでも平和運動をすすめるが、ドイツではナチスが勢力をのばし、相対性理論をみとめないといわれる。
1933年、ドイツへ帰る途中でナチスはアインシュタインの別荘に武器があったとして銀行預金や財産を封鎖。アインシュタインはベルギーまでいくがナチスは一部の本を禁書にし、相対性理論の本もそこに入り、しかも暗殺計画もささやかれ、とうとうアインシュタインはプロシアの科学アカデミー会員を辞し、アメリカにわたる決意をする。

1933年プリンストンにできたての高級科学研究所の終身会員になる。
1936年妻のエルザを亡くす。

1939年にドイツがウラン原子を核分裂させる実験に成功。
科学を兵器に利用することに反対してきたアインシュタインでしたが、ドイツが核をもつ恐怖から、周囲の勧めもあって、アメリカ大統領に原子爆弾をつくることを進める手紙を書き、のちにそれが日本におとされたことを一生悔やんだという。そして残りの人生を平和運動にささげた。
ただし、原子爆弾についても、手紙以外は一切協力はしなかった。

70歳の時、イスラエルの大統領に推薦されるが断る。
しかし、死後の著作権をヘブライ大学に送り、同じユダヤ人としての立場を示した。

1955年核兵器の廃止を目指す「ラッセル・アインシュタイン宣言」にサイン。
その1週間後息を引き取る。76歳。




アインシュタイン―相対性理論を生みだした天才科学者 学習漫画 世界の伝記

アインシュタイン―相対性理論を生みだした天才科学者 学習漫画 世界の伝記

  • 作者: よしかわ 進
  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 1992/11/20
  • メディア: 単行本



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