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ナポレオン 荒れ野のライオンとよばれた英雄 [人]

読み聞かせ時間 小5小3の息子たちが20分くらい
ウケ度 何度か読んでいたから面白かったんでしょう
印象度 知ってることのほうが多いかったかな、超有名人なので

1769年、20年に及ぶ独立戦争の末にジェノバからの支配を脱したコルシカ島が、ジェノバによってフランスに売り渡され、圧倒的軍事力の前にコルシカ島のリーダーパオリはイギリスに脱出。コルシカ島はフランスの支配下にはいった。
この年ナポレオンは生まれた。コルシカ風には「ナポレオーネ」荒れ野のライオンという意味であった。

両親はコルシカ島独立のため戦った人たちだったが、やむおえずフランスの支配下にはいった。
フランスは懐柔策のためと思われるが、コルシカの子供にフランスでの教育機会をあたえ、
9歳のナポレオンは兄のジョゼフとともにフランスに渡る。

1779年フランスのオータで兄とともにフランス語を学び、その後物静かな兄は神学校に、活発な少年だったナポレオンは陸軍幼年学校に進学した。
コルシカ島のことを馬鹿にされると激しく抵抗する少年で、友達もブーリエンヌ一人を除いてできなかった。
いつも一人で本を読んでいるようだった、特に好きなのはプルターク英雄伝だったらしい。
数学の成績は抜群で、雪合戦で指揮をとる楽しさ、人に信頼される大切さを学んだ、

1784年、テストに合格してパリの士官学校に入学。翌年父親がなくなる39歳だった。
卒業試験に合格したナポレオンはバランスの陸軍砲兵連帯に所属16歳だった。
このころ兄のジョゼフは弁護士になるため大学にいき、弟はナポレオンと同じ幼年学校にすすみ、
コルシカ島には弟2人、妹2人、母親という状態で、仕送りのため、ナポレオンは1日1食で干からびたパンと水をで食事していたという、しかし本好きはあいかわらずで、数学書・砲術研究書、歴史書、ゲーテなども読み漁っていたらしい。

1786年休暇のためコルシカに帰る。その後たびたび実家に手伝いにいくようになる。
1789年フランス革命によりコルシカ島は独立した州と認められる。ナポレオンは喜ぶが、かつての独立の英雄パオリはイギリスから帰国。フランスからの完全独立をめざすという。
フランスで教育をうけたナポレオンらのボナパルテ家は親フランス派とみなされ、やがて島から追われる。
こころはコルシカ人であったナポレオンもこのときからフランス人として生きる決心をする。

革命政府は国王と王妃を処刑、ロベスピエールを中心としたジャコバン派が権力を握り、恐怖政治を行う。
外からは革命をつぶそうとするイギリスとオーストリアの攻撃が始まり、フランスは窮地にたっていた。
ナポレオンはツーロンの砲兵隊長に抜擢されるが、当時の軍上層部は革命で指揮官がいなくなり、画家や医者が司令官をしていたため、作戦がお粗末で戦況は悪くなるばかりだった。ナポレオンの作戦もなかなかとりたててもらえなかった。
何度か総司令官が変わったあと、軍人の総司令官がナポレオンの案を採用。この作戦でツーロンのイギリス軍を撃退した。ナポレオンの名はツーロンの英雄としてフランスに知れ渡った。

しかし、ロベスピエールが失脚すると、ロベスピエール派とみられていたナポレオンも逮捕、投獄される。処刑はされなかったものの砲兵隊をやめさせられる。
1795年、ナポレオンは政府の実力者に依頼されて国内の反乱軍を鎮圧。ナポレオンは26歳で国内軍最高司令官になる。
このころ6歳年上のマリー・ジョゼフ・ローズと出会い、1796年に結婚。ナポレオンは彼女をジョゼフィーヌと呼んだ。ジョゼフィーヌには前の夫との間に2人の子供があった。

この結婚直後にイタリア遠征。
兵士に直接語りかけ、士気を高め、戦場では自ら国旗を持って先頭にたつ司令官に兵士たちは感激し、
オーストリア軍を撃退。イタリアをオーストラリアの支配から解放する。
ナポレオンの名前はヨーロッパ中に知れ渡ることになる。

1798年、イギリスとの戦いを有利にするため、ナポレオンはエジプト遠征を遂行。
海軍はイギリスのネルソン提督に撃退されたが、エジプト攻略自体は成功。史跡調査などの成果をあげる。
しかし、ナポレオンの留守にイタリアがとりかえされるなど、フランスに危機がせまったため、帰国。
わずか4隻の船に500人の部下でツーロンまで戻った。
英雄に帰還にフランス国内は熱狂した、ナポレオンは議会でのんびり議論していては国が亡びると力説、反対派を排除し(ブリュメール18日のクーデター)、選挙でも圧倒的支持を得て、新政府代表となる。
ナポレオンは「革命は終わった」と宣言。

1800年有名なアルプス越えでオーストリア軍を破る。このときの肖像画が有名だが、実際にはロバで超えたので白馬ではなかったらしい。
オーストリアにイタリアから手をひかせる約束をとりつけ、フランスに戻ると国民の圧倒的支持のものと死ぬまで政治の実権を握る権利を手に入れる。

1804年「ナポレオン法典」を発表。のちの法律の手本となる。
レジオン・ドヌール勲章設置。
国民会議の圧倒的承認を得て皇帝となる。
共和制に皇帝が誕生するのは変だというベートーベンのような人(彼は怒ったらしい)もいたが、
革命の混乱にあきあきしていた国民は望んで皇帝をうけいれたらしい。
戴冠式では、ナポレオンは自らの頭に王冠をのせ、妻には自分からさずけた。

独裁者となったナポレオンは、得意の攻撃パターン(砲撃→騎兵隊→歩兵)で陸戦は無敵だったが、
海戦ではネルソン提督ひきいるイギリス艦隊に勝てなかった。
やむなくナポレオンは大陸封鎖をするが、これに反発するヨーロッパ諸国で反乱や密貿易が横行する。

1809年子供ができなかったので、ジョゼフィーヌを離婚して、1810年オーストリア王女マリー・ルイーズと結婚。後継ぎが生まれる。
1812年ロシア遠征を行うが、ロシア軍は食料を焼いては後退する兵糧作戦をとり、モスクワまで占領したものの物資のないナポレオン軍は冬とともの反抗にでたロシア軍に大敗。
これがきっかけで、ヨーロッパ同盟軍がパリにせまり1814年ナポレオンは皇帝を退位、エルバ島に流される。

フランスではルイ16世の弟ルイ18世が即位、しかし外国の言いなりだと国内世論の評判は悪かった。
そこにエルバ島から脱出したナポレオンが現れると軍はたちまち彼の指揮下に入る。
フランスを奪還したナポレオンだが、プロシアを破ったあとのイギリス軍とのワーテルローの戦いの最中、
ロシアがイギリス側として参戦。敗北して、再びセント・ヘレナ島に流される。(ナポレオンの100日天下)

1821年がんのためセント・ヘレナ島で51歳でなくなる。
遺言に従って遺体は19年後の1840年にフランスに運ばれて埋葬された。

ナポレオン 荒れ野のライオンとよばれた英雄 (学習漫画 世界の伝記)

ナポレオン 荒れ野のライオンとよばれた英雄 (学習漫画 世界の伝記)

  • 作者: 古城 武司
  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 1992/03/19
  • メディア: 単行本



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マリー・アントアネット 革命に散った悲劇の王妃 [人]

読み聞かせ時間 小学3年5年が自分でよんで20分
ウケ度 特に感想はいっていませんでした
印象度 すごくかわいい王妃様でした。擁護している内容です。

マリー・アントワネットは1755年、神聖ローマ帝国皇帝フランツ1世とマリア・テレジアとの間の15番目の子供として生まれました。女の子としては末っ子です。オーストラリア風にはマリア・アントニアと読むそうです。
すこし気まぐれなところもありましたが、両親や兄弟に愛されのびのびと育ちました。

このころオーストリアはイギリスとフランスの対立に巻き込まれ、フランス・ロシアと同盟をむすびイギリス・プロイセンと戦いました(7年戦争)
マリー・アントワネットの結婚は、フランスとの同盟を強固にするためのもので、年齢的に、フランスの王太子ルイ・オーギュストとつりあっていたため決められたようです。マリーが1歳下。

オーストリア宮廷ではどっさりの家庭教師でマリー・アントワネットの教育を行い、最後はマリア・テレジアみずから教えたといわれています。
15歳のとき、大勢のおつきをつれてフランスに輿入れします。
このときマリーは以後はフランス語しか使わないと宣言するなど、少女ながらも王家の誇りを示します。

ベルサイユ宮殿で結婚式をあげ、フランス王家の王太子妃となるが、大勢の目の前で食事をするなどのフランス風の作法がつらかったようである。
可憐な少女であったマリーの評判は国民に高く。パリを訪問すると熱狂的な歓迎をうけたという。

しかし、夫との性格の相性はあまりよくなく、地味で狩りや錠前づくりにあけくれるルイと、派手で社交好きなマリーとはすれ違い生活をおくっていたようである。
こうした生活のなかである仮面舞踏会でマリーはスウェーデン貴族フェルゼンと知り合う。
フェルゼンは国王一家が幽閉されたとき、脱出の手引きをした人物である。

悪気はなかったと思うが、派手好きであることは間違いなかったようで、服や宝石にお金をかけ、仮面舞踏会を渡り歩くような生活を送っていたようで、オーストリアの母や兄に心配されている。
しかし、王太子がうまれるころには、国民の人気もあり、母として少しおちついた生活を送るようになっていたらしい。

一方アメリカでは独立戦争が起こり、イギリスと対立していたフランスはアメリカを援助。
ルイ14世、15世時代の浪費や戦争による浪費の上にこの戦費が重なり、とうこう財政が破たん。
このころからマリー・アントワネットの悪口がたびたび新聞に登場。革命思想を浸透させるための新聞であったが王妃についてはねつ造記事が多かったらしい。
「パンがなければお菓子をたべればいいのに」もマリーの発言ではなかったといわれている。
国民は新聞を信じて、国の赤字はマリー・アントワネットの浪費のせいと思い込んでいたらしい。
私生活でも第二王女や王太子をなくし、さびしさを紛らわそうとまた以前のような生活にもどっていたらしい。

王は貴族や僧侶に税金をかけようと3部会を招集する。
3部会では貴族や僧侶が税金に抵抗。平民たちは自分たちだけで国民会議を作り、憲法を制定するまで解散しないと宣言する(テニスコートの誓い)
これを武力で鎮圧しようとした国王に対して市民が放棄。このときのルイ16世の発言「暴動か?」に対して「いえ、陛下革命でございます」は有名。

1789年にはバスチーユ牢獄襲撃が起こり、6000人の女性がベルサイユに押し掛けるという事件も起こる。
このとき押し掛けた民衆に対して、マリー・アントワネットが優雅におじぎをしてみせたいうエピソードがはいっていた。
王の一家はパリにあるチェイルリー宮殿に移される。

1790年にはマリーの兄のオーストリア皇帝ヨーゼフ2世が亡くなる。
1791年国王一家はフェルゼンの手引きでオーストリアに脱出を図るが失敗。
擁護派の支持も失って、1793年国王は裁判の末死刑を言い渡される。
ルイ16世は「自分が死ぬことで国がすくわれるなら」と立派な最後を遂げる。

その後マリーは王太子を奪われ、自身も裁判にかけられて死刑を宣告される。罪状はフランス国民の財産を浪費した罪だった。
死刑台にあがるとき役人の足をふんでしまったマリー・アントワネットは思わず
「おゆるしくださいませ、わざとではないのです」と謝ったという。そのご「さようなら」といって処刑された。

どこまでも育ちのよいお姫様で、夫も育ちのよいおぼっちゃんで、情勢になすすべもなく、危機意識もなく処刑されていったということみたいです。


マリー・アントアネット 革命に散った悲劇の王妃 (学習漫画 世界の伝記)

マリー・アントアネット 革命に散った悲劇の王妃 (学習漫画 世界の伝記)

  • 作者: 千明 初美
  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 1992/03/19
  • メディア: 単行本



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ライト兄弟 人類の夢・飛行機の発明者 (学習漫画 世界の伝記) [人]

読み聞かせ時間 自分で読んで15分くらいだったみたい。小3と小5
ウケ度 飛行機なんでそれなりにおもしろかったらしい
印象度 兄弟の寿命がそんなに違うとはしらなかった

ライト兄弟の兄ウィルバーは1867年、弟のオービルは1871年生まれ、
上には2人兄がいましたが、遠くの学校にはいっていて一緒には育たなかったようです。
下には1874年に生まれた妹がいました。

父親は巡回牧師をしていたので、一家は各地を転々をしまいした。
また、父親が不在のことも多かったようです。
母親はこのころにはめずらしく大学を出ている人で、二人が空飛ぶおもちゃを改造する手助けなどを
してくれていたようです。

二人は父親の買ってきてくれたゴムの飛行機を改良したり、
たこあげ大会で上げるタコを作ったりしました、二人のタコは優勝し、そのミニチュアタコをうって、
母親に手作りの椅子をプレゼントしたりしました。
そして、いつか空を飛びたいと夢みていて、父親は「二人で力をあわせればできる」といってくれました。

ウィルバーは高校でアイスホッケーをしていましたが、大けがをして、それが悪化、
選手どころか、高校もやめないといけなくなりました。
父親は心配して科学の本を与えました。徐々に科学の世界にひかれたウィルバーは
自力で本を読んで勉強しました。

ウィルバーが18歳のとき、弟のオービルは町でともだちと印刷所をしていましたが、
印刷機がすぐに壊れるのでこまっていました。友達とも喧嘩別れしてしまいました。
オービルがウィルバーに相談すると、ウィルバーは新しい印刷機をつくるのを提案し、
二人はいっしょに印刷所をやって新聞をつくることにしました。

こうして二人は新しく足踏み印刷機を作り、のちに他の印刷所からも見学にくるほどになりました。
記事のほうは、運送の仕事をしながら集め、町の話題を乗せた「ウエスト・サイド・ニュース」を
週に1回発行しました。新聞は評判になり、間もなく日刊「イブニング・アイテム」になりました。
しかし、大手の新聞社が進出すると、記事の内容は豊かになり、値段も安いので
ライト兄弟の新聞は売れ残るようになりました。
このころ母親が肺結核でなくなります。母親は兄弟の飛行をみることができませんでした。

ウィルバーはそのころ、友人から壊れた自転車を譲り受け、自分が機械いじりが好きなことを自覚していました。それもあって、二人はすっぱりと新聞をあきらめ、自転車屋を始めました。
ウィルバー25歳、オービル21歳でした。
そして中古自転車のパーツで作った自転車を安くうったりしていました。
また自転車レースにオービルが出場し、ライトフライヤー号で優勝。店は繁盛するようになりました。

このころ弟のオービルがチフスにかかり寝込むとう事件がおき、またリリエンタールが
飛行実験の最中に墜落死するという事件がおきました。
空を飛ぶ夢を思い出した二人は空を飛ぶ自転車をつくろうと決意します。

そのころ、世界でもいろんな人たちが空を飛ぼうとしていました。
兄弟はスミソニアン協会のラングレー博士の助けなどをかりて研究をすすめました。
人々はせっかく繁盛している店をもっているのにと、心配しました。
やがて兄弟は横風でも期待を安定させるための翼のねじれを思いつきます。
現在の補助翼にあたるもの(実際の補助翼はカーチスの発明です)です。
こうして実際の飛行機もつくりましたが、それは地面から2・3メートル
浮くだけのもので、操縦できませんでした。

兄弟はもっと実験をするtめに風洞実験装置をつくり翼の研究を進めました。
こうして1902年に完成した第3号グライダーは方向舵と昇降舵がついて操縦ができるようになりました。
グライダーは190メートル飛んで、世界記録を打ち立てました。

兄弟はさらに動力飛行に挑みます。時には思いつきで行動するオービルと、
実験をつみかさね、確実に動くものを作り出すウィルバーの間で、争いがありましたが、
妹のキャサリンが二人を支え、兄弟は軽いエンジンと手作りの翼をもつ飛行機を完成させます。

1903年キティ・ホークで実験をしますが、軍からたくさんの費用をもらって研究をしていた
スミソニアン協会のラングレー博士の実験が失敗し、世間は飛行機に対して懐疑的になっていました。
二人の動力飛行機はオービルの運転で成功をおさめますが、あまり注目されませんでした。

兄弟の飛行機に関心をもったのはイギリスやフランスで、1908年にはウィルバーが一人でフランスで
1時間の飛行をみせ、ヨーロッパで大きな話題になりました。
その後アメリカ陸軍からも注文がくるようになりました。
1909年に二人はライト飛行機制作会社を設立します。

1906年には二人が飛行機の発明者であるとして特許がみとめられましたが、
侵害が後をたたず、ウィルバーは裁判のため忙殺されるようになります。
その疲れからか、チフスにかかり1912年45歳で亡くなります。

ウィルバーが亡くなるとオービルはもう飛行機をつくろうとしませんでした。
他の飛行機会社でも優れた飛行機が作られるようになっていたのです。
夢をおいかけてそれを実現したことはとても幸せだったけれど、
飛行機は二人の手を離れ、1914年の第一次世界大戦では兵器として使われました。

ライト兄弟の飛行30周年記念の1932年にはオービルは姿を現しますが、
「兄とともにこの日を迎えたかった」との言葉を残しました。このころ父親もキャサリンもなくなっていました。
オービル・ライトは1984年76歳でこの世をさりました。


ライト兄弟 人類の夢・飛行機の発明者 (学習漫画 世界の伝記)

ライト兄弟 人類の夢・飛行機の発明者 (学習漫画 世界の伝記)

  • 作者: 熊谷 さとし
  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 1989/09/20
  • メディア: 単行本



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学習漫画 世界の伝記 (18) [人]

読み聞かせ時間 息子二人とも自分で読んでいました。多分20分くらい。小3と小5
ウケ度 おかあさんおもしろいから早く読みなよといわれました。質問もでていました。興味あったんですね
印象度 ほとんど知っている知識でした、記録がなく謎な部分が多い人だなと思いました

クリストファー・コロンブスは、1451年にジェノバで生まれました。
両親の仕事は羊毛から布を織る仕事をしていたといわれています。
兄弟はよくわかりませんが、バルトロメという弟がいて、のちにスペインで地図屋になったのは確かなようです。

港がすきで船をみて育ち、父親は商人だったので商いを手伝いながら、航海もしていたのだろうと推測されています。おそらく船乗りの話からマルコ・ポーロの話をきき、「カタイ」(おそらく中国)や黄金の国「ジパング」に夢をふらませていたと思われます。

黄金の国を探すために勉強したかったコロンブスは教会の神父にたのんで読み書きを教えてもらいます。
また弟が読み書きを習いたいといったとき、自分が家業を手伝うので学校にいかせてやってくれと父親に頼んだといわれています。弟は読み書きを覚えて地図書きになります。

当時、航海王エンリケの活躍などで、貿易の中心は地中海からアフリカ周りの航路に移りつつありました。
イスラム教徒の勢力をとおらないでアジアと交易したいという動機のためでした。

コロンブスが24歳のとき、フランドルへの航海に出発しましたが、ポルトガル沖でフランドルと敵対しているフランスの艦隊に攻撃され遭難。ポルトガルへ逃れる。
そこで弟と再会。しばらくリスボンに住んで学者たちとつきあうようになり、トスカネリの地中は丸いという説を知る。これを聞いたコロンブスは自分でアイスランドから赤道付近まで航海にでて、検証。地球は丸いとの確信を持つ。

28歳のときポルト・サント島(アフリカ沖)の総督の娘と結婚。妻の兄にたのまれ島の見回りの仕事をする。
息子が生まれるが、地球が丸いなら西にすすんでアジアにたどり着くという考えを実証したいコロンブスは、妻子をつれてポルトガルにわたる。

しかし、ポルトガル王ジョアンニ2世は出資を断った。喧嘩別れしたコロンブスはスペインにたどり着くが、途中で妻を亡くす。息子とふたりスペインのラビダ修道院に身をよせたところ、ペレス神父の計らいでスペイン女王イザベルに紹介してもらう。

イザベル女王はコロンブスの考えに関心をもち、出資したいと考えたが、当時のスペインはイスラム教徒との戦争中であったので、学者の反対もあり実現しなかった。

コロンブスはイギリス王にも話を持ちかけるが、断られ、フランスに旅立とうとするが、イスラム教徒を制圧した女王は学者の反対をおさえ、航海の許可を与える。
このときコロンブスは新大陸の利益の10分の一をもらうという約束をとりつけている。

女王の許可がでたものの、危ない航海に乗組員はあつまらず、ならず者や囚人のよせあつめで3隻の船を用意して出発。1492年のことだった。反乱や妨害にあいながらも、スペインをでて70日目、カナリア諸島から36日目でサン・サルバドル島を発見。アジアだとおもっていたコロンブスは黄金の国を探し回るがみつからず、仲間の船1隻は離脱。1隻は座礁。1隻のみになってしまったため、仲間の一部を現地に残しスペインへ戻る。
途中離脱した船が戻り、スペインへ戻ると大歓迎を受ける。

このころ、「コロンブスでなくとも西にさえいけば発見できた」というものがおり、その時コロンブスが卵を使って「人まねならだれでもできるが、最初にやるには知恵と勇気がいる」といったのが「コロンブスの卵」

2回目の航海は財宝目当てでたくさんの人が参加するが、おいてきた乗組員のところに戻ってみると全滅しており、現地人との関係も悪化。ついてきた人たちは黄金がないと騒ぎかえってしまう。

スペインではコロンブスの悪口がささやかれたがイザベル女王のコロンブスへの信頼は厚く1498年第3回航海が行われる。この航海では南米大陸を発見するが、「コロンブスが黄金を独占している」との中傷でスペインに呼び戻され、鎖につながれ、財産が没収されてしまう。

イザベル女王の計らいで鎖から放たれ、財産を返してもらったコロンブスはさらなる航海を希望する
1504年に第4回航海にでるが、反乱などであまり成果はあげられなかった。スペインに戻ったところ、イザベル女王がなくなり後ろ盾をなくしてしまう。

その後航海にでることもなく、1506年スペインのパリャドリドでなくなった。

学習漫画 世界の伝記 (18)

学習漫画 世界の伝記 (18)

  • 作者: 竹村 早雄
  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 1985/01
  • メディア: 単行本



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ノーベル ダイナマイトの発明者 (学習漫画 世界の伝記) [人]

読み聞かせ時間 小学3年次男が15分でマンガだけよんでいた
ウケ度 最後までよんでいたみたいだから、それなり。2度は読まなかった。
印象度 スウェーデンの人だけど、いろんなところで暮らしたのね。

アルフレッド・ノーベルは1833年スウェーデンの首都ストックホルムに生まれた。
兄がふたりいた。子供のころは体が弱くよく熱を出していた。

父親は設計士であったが、発明家でもあり、発明に没頭して、あまり仕事をしなかった。
母はそんな夫の才能を信じ懸命にささえていた。

このころのスウェーデンはロシアとの戦争に負けて、国全体が貧しかったため
1837年父親はフィンランドに働きにいくことになる。

アルフレッドは学校へいくようになったが、体が弱く休みがちだった、しかし学業は優秀でメダルをもらうほどだった。

1842年アルフレッド9歳のとき、父親がロシアに工場をもち、家族を呼び寄せる。
父親はニコライ1世の依頼で機雷の研究をしながら工場を経営していた。

3人の兄弟はロシア語を学ぶようになる。
ここでもアルフレッドはすぐにロシア語を習得してしまい、英語やフランス語ドイツ語も教えてもらうようになる。

このころ弟のエミールが生まれる。
3人の兄弟は家庭教師に教わっていたが、その中の一人の先生が「人間としてたいせつなことはなにか」を一緒に勉強しよう」と語りかけ、この言葉はずっとアルフレッドの心に残る。

1850年アルフレッドは17歳になる、家庭教師も教えることはないというほど優秀で、暇があると父親の工場を手伝っていた。
兄二人は工場で働くようになっていた。

父親はアルフレッドの才能を伸ばそうと、アメリカへ勉強にだす。
アメリカへの長い航海の最中、アルフレッドはイギリスの詩人シェリーの詩にであう。

すっかり感動したアルフレッドは自分も詩を書くようになり、せっかく渡ったアメリカでも勉強に身がはいらなかった。
1年ほどでアメリカを引き上げたアルフレッドは、パリに立ち寄りフランス語の勉強をする。

このとき美しい少女と知り合うが、彼女はなくなってしまう。
アルフレッドは失意のままロシアの両親のところに戻る。

家に戻ったアルフレッドは勉強をおろそかにしたことを後悔し、工場の仕事と勉強に一生けん命取り組む。
しかし、たおれてしまい、ストックホルムの祖母のところで半年療養する。

20歳のときロシアのペテルブルグの両親のところに戻る。
このころロシアとトルコの戦争にイギリスとフランスがトルコの見方として加わり、クリミア戦争がおこる、

父親の工場は大忙しになる、父親の機雷で見事に敵の船は沈むが、同時に黒色火薬では爆発力が弱いということもわかる。
このころジーニンとトラプというロシアの科学者がアルフレッドの父を訪ね、ニトログリセリンの爆発力を見せる。しかし振動に弱く取扱いに注意を要するとのことだった。
父とアルフレッドはニトログリセリンの研究をしようとするが、戦争で工場は大忙しでなかなかできなかった。

そんななかロシアのニコライ1世がなくなり、1856年ロシアはクリミア戦争に敗北する。
アルフレッドの父は皇帝からもらうはずのお金がもらえなくなり、工場は人手に渡る。

父親は失意のうちに母親と弟のエミールを連れてスウェーデンに帰る。
しかしアルフレッドたち3人はロシアにのこり、人手に渡った工場を手伝うことにする。
アルフレッドはニトログリセリンの研究もつづけた。
しかしアルフレッドは働いて研究しての生活で無理がたたり、急性肋膜炎と心臓の病気になり一冬たおれてしまう。
春になるころ、病状がよくなると、一緒に暮らしていた兄が結婚してフィンランドにいくことになる。

ニトログリセリンの研究を続けようとするアルフレッドに、もう一人の兄が工場で研究できるように取り計らってくれる。
ここで、ニトログリセリンと黒色火薬を合わせた新しい火薬を発明。
1863年にはスウェーデンから火薬用起爆装置の特許をとる。

アルフレッドはストックホルムにもどり、自宅の隣に爆薬製造工場を建てる。
工場は繁盛し、大きくなるが1864年、爆発事故をおこし、エミールがまきこまれて犠牲になる。
爆発の原因はエミールのニトログリセリンの研究の事故であった。
それからは町の近くで爆薬を作ってはいけないことになった。

一度は爆薬製造をやめようかと考えたアルフレッドだったが、たくさんの注文と兄の励ましにささえられ、再び工場を建てる。
しかし、ニトログリセリンの扱いにくさは多くの事故を産んだ。

アルフレッドはニトログリセリンを安全に運ぶ方法を探るうち、珪藻土にしみこませることを思いつく、これがダイナマイト。
1867年ダイナマイトはスウェーデン政府から特許を与えられ、世界中で作られ使われるようになる。

1872年父親が70歳でなくなる。
40歳になったアルフレッドは、ダイナマイトより今日よくな火薬をつくろうと、研究所で研究を重ねていた。
そして43歳のとき、切り傷にぬった水薬をヒントに「ゼラチンダイナマイト」を発明する。
ノーベルは「発明に終わりはない」といっている。

1873年からアルフレッドはパリに住むようになり、女性秘書ベルタ・キンスキーと知り合う。
彼女が結婚後「武器よさらば」を書いたズットナー夫人で、アルフレッドは彼女から戦争のこと、平和を願う心を教わる。
自分の火薬が戦争に使われていることに心をいため、平和のために活動している団体や、貧しい人に寄付をするようになる。
兄たちがロシアに石油会社をつくったときも出資している。
1887年には煙のでない火薬バリスタイトを発明して特許をとる。
翌年、母親と兄の一人がなくなる。

1889年アルフレッドはバリスタイトをつくる権利をイタリアに売り渡す。これがフランス政府の怒りをかって、アルフレッドはパリをでて、イタリアのサン・レモに移り住む。
60歳をすぎたころから体をわるくして寝込むことが多くなる。

そんなある日、自分の遺産を使ってその年に人類のためにもっとも尽くした人に賞金をおくることを思いつく。
5つの分野はアルフレッドの考えによるもの、物理学賞、化学賞、生理・医学賞、文学賞、平和賞。
また選ぶ方法も細かく考えた。
1896年息を引き取った。ストックホルムの両親と弟が眠る墓に葬られる。

アルフレッドの遺言のノーベル財団によって実行され、1969年には経済学賞がつけくわれられた。

ノーベル ダイナマイトの発明者 (学習漫画 世界の伝記)

ノーベル ダイナマイトの発明者 (学習漫画 世界の伝記)

  • 作者: 栗原 清
  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 1989/09/20
  • メディア: 単行本





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