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ショパン―「ピアノの詩人」とよばれた天才作曲家 [人]

読み聞かせ時間 小6男子で20分
ウケ度 普通
印象度 病弱で繊細な人だったんだな。

1810年、フレデリック・ショパンはポーランド首都ワルシャワ近くの小さな村エラゾボ・ポーラで生まれました。
父のニコラは教師で、当時はスカルベク伯爵の家で家庭教師をしており、母のユスティナは伯爵の遠縁でした。ポーランド民謡がうまい人だったようです。
姉のルトビカはピアノを習っていていましたが、小さいころのフレデリックはピアノの音を聞くだけで泣き出したそうです。フレデリックの指が長いことからピアニストにしようとしようとしたが、無理だと思ったという。

フレデリックが生まれて間もなく、父がワルシャワ高等中学のフランス語とフランス文学の教師となったため、ワルシャワに引っ越すことになる。ここでイザベラとエミリアという妹が生まれる。
このころ姉のルトビカが弾いているピアノを見ていて、いきなり弾いてみせる。両親はフレデリックの才能を確信し音楽家にするためにジブニイ先生に見せることにする。フレデリックはバッハやモーツァルトの古典を学びながら成長し、7歳でポロネーズを作曲。次に作った行進曲は軍楽隊に演奏され、ショパンはワルシャワの天才少年として有名になる。

貴族の館にまれかれて演奏をするようになり、特にラジービウ大公は熱心は支持者でした。
12歳のときジブニイのもとをはなれ。当時ポーランド最高の音楽家といわれたエルスナーの指導をうける。

父親の進めて一流の音楽家になるには教養も必要だからと3年間高等中学にかようことになる。
このころの級友ドミニクの誘いでシャファルア村で夏の休暇をすごし、家族にシャファルア村通信という新聞を送っている。絵もうまかったという。
学校を卒業するころから体調は少しずつ悪くなっていた。妹も肺結核であり、ショパンもそうであったが、妹エミリアの方が重く、温泉療養などをしたが、エミリアは14歳で亡くなる。

悲しみにくれるショパンを父の塾の生徒であり親友でもあったティテュス・ボイチェホフスキが夏の旅行に誘い、ラジービウ大公の別荘で過ごす。ここで大公の娘ワンダにピアノを教えたりしてすごし、こころの傷をいやす。

1828年18歳のとき、初めて国外に旅行にいく、行先はベルリンオペラや演奏会に通う。そしてウィーンやパリへ行ってみたいと思う。
1829年ワルシャワ音楽院を卒業。このとき声楽科にいてコンスタンツィヤはショパンの初恋の人で「ワルツ変ニ長調」は彼女にむけた曲だという。
卒業後はウィーンへいき、エルスナー先生の紹介で有名な音楽家や出版社の人と知り合いになり演奏会をひらいて大成功を収める。
1830年にはワルシャワの国立劇場で正式にデビューする。

フランスでは七月革命が勃発。当時のポーランドはロシア、ドイツ、オーストリアによって分割されており、ほとんどの国土はロシアがもっていました。七月革命の影響で革命の波がひろがりベルギーが独立、ポーランドでも独立運動が高まっており、ショパンの周囲の人たちは彼の才能が失われるのを恐れて国外にでることをすすめます。

1830年11月、ショパン20歳のとき、祖国の土をもってポーランドを出国。ウィーンまで友人のティテュスがついてきてくれました。しかし、ワルシャワでロシアのコンスタンティン大公を追放する反乱がおき、ティテュスは革命に参加するためポーランドに戻ります。みなに「君の仕事はよい音楽を作り続けること」といわれたショパンはウィーンにとどまりますが、ポーランド分割にかかわっていたオーストリアではポーランド人であるショパンへの風当たりは強く、演奏会もおもうように開けませんでした。父親が手紙ですすめたこともあり、ショパンはフランスに行くことにします。

ポーランド人であるため、なかなか旅券がおりませんでしたが、1831年ようやくオーストリアをしゅぱつ。途中ポーランドでの革命が失敗したことをきき悲しみます。ショパンはその悲しみや怒りを作曲にむけるのでした。
パリについてショパンはラジービウ大公と再会。デルフィーヌ・ポトツカ伯爵夫人のサロンで、大勢の芸術家に紹介してもらいます。
中でもフランツ・リストとは親友になりました、他にも詩人のザレスキ、ミツキェビチ、ロッシーニ、カルクブレンナー、ケルビーニらと知り合いになりました。
パリでは無名だったショパンは友人たちの計らいで1832年パリのプレイエルホールで演奏会を開き、絶賛されます。しかし演奏会自体は収入にはならずに困っていたところ、イギリスのロスチャイルド家の夜会での演奏が評価され、上流階級からピアノ講師の仕事が舞い込み、生活はゆたかになります。高級アパートにすみ、使用人をやとい、自家用馬車にのる生活をおくるようになります。楽譜も出版され、一人前の音楽家と認められるようになったのです。

1835年チェコのボヘミアの温泉地で両親と再会。3週間を一緒に過ごします。両親は立派になったショパンをみて安心して帰っていきます。
パリへ帰る途中に立ち寄ったドレスデンのボジンスカ家でショパンは友人の妹で昔ピアノを教えていたマリアに再会。二人は恋におち結婚の約束をしますが、2年ほどで手紙は途絶えがちになり、マリアの両親から正式に婚約解消の知らせを受け取ります。理由はよくわかっていませんが、ショパンが貴族でなかったことかもしれないといわれています。

このころ結核を発症。パリの街中で倒れたところを女流作家のジョルジュ・サンドにたすけられます。
サンドはショパンより6歳年上で、二人の子どもがいる女流作家で、男性の服装をしていることでも有名でした。最初サンドを避けていたショパンも、献身的に介抱してくれたサンドに失恋の傷をいやされ、ふたりの恋愛はパリ中の噂となりました。

1838年ふたりは口うるさい世間の目をのがれてマヨルカ島に別荘を借りて暮らしますが、島が雨季に入ると湿気がおおく雨漏りのする別荘でショパンは体調をくずして寝込んでしまいます。これをみた島の住人が結核がうつるからでていけと騒ぎだし、ふたりは山の修道院においやられます。二人は島をはなれフランス中部の村ノアンにあるサンドの別荘に移ります。

1840年から43年の間、春から秋はノアン、冬はパリで過ごし、ショパンの病状もおちついていました。
しかしショパンの病状が悪化するとともに二人のすれ違いは大きくなり、さらにサンドの息子モーリスが成人してショパンと対立。娘のソランジュもモーリスと険悪であり、家庭はおちつかなくなていました。

1844年父親の死(結核による)を聞いてショパンの病気が悪化。仕事を休むようにいわれても曲を作り続けるショパンをみて、サンドは自分より音楽を愛していると確信。さらに娘ソランジュの結婚問題も加わって、けんかになり、1847年二人は別れることになる。

サンドと別れたあとも、生活のためピアノを教え、作曲を続けるなかで次第に病気はおもくなっていきます。
1848年プレイエルホールで6年ぶりに演奏会をひらき、これがパリで最後の演奏会になります。演奏会は成功でしたが、パリで2月革命がおこり、演奏会どころではなくなったのです。
大勢の人がイギリスに亡命し、ショパンも生徒だった貴族のジェーン・スターリングの誘いでイギリスにわたります。

イギリスでは夜会に出席したり、ビクトリア女王の前で演奏したりします。しかしショパンの体は悪くなるばかりで、ポーランドを思う気持ちが強くなっていました。
1948年11月ショパンはパリに帰ります。寝込んでいたショパンを姉のルトビカが訪れ看病します。母親とティテュスは出国許可がおりず、これなかったのです。
1849年10月17日、姉やポトツカ夫人、大勢の見舞客にみまもられ、ショパンは39歳の生涯を閉じます。遺体はパリのペール・ラジューズに埋葬され、墓の上にはポーランドをでるときもってきたポーランドの土がまかれました。

ピアノの詩人といわれるほど、生涯でピアノ曲を多く作曲し、繊細な歌うような旋律の曲を残しました。派手なテクニックより、軽やかな指のしなやかさを活かした演奏だったようです。



ショパン―「ピアノの詩人」とよばれた天才作曲家   学習漫画 世界の伝記

ショパン―「ピアノの詩人」とよばれた天才作曲家 学習漫画 世界の伝記

  • 作者: 千明 初美
  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 1996/07/19
  • メディア: 単行本



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アンデルセン―世界じゅうで愛される「童話の王さま」 [人]

読み聞かせ時間 小6男子自分で読んで20分
ウケ度 普通かな
印象度 貧乏なのは知っていたが、作家になる前にいろいろやっていたのはしらなかった

ハンス・クリスチャン・アンデルセンは1805年4月2日、デンマークのオーデンセという小さな村に生まれました。父親は靴職人のハンス。母はアンナ・マリーというひとでした。
父は勉強ができましたが、家が貧しく進学を断念していました。そのため息子にはラテン語の教育をうけさせたいと思って、いろいろ努力していたましたが、あまりうまくいかず、最後は精神を病んで亡くなりました。祖父もそうだったため、アンデルセンは生涯自分も精神の病にかかるのではと怯えていたのです。

11歳の時、父を亡くしたアンデルセンは少し前から学校に通ってはいましたが、夢見がちで空想壁があり、勉強はあまり好きではなかったようです。お話は好きで、小さいころは父親に「アラビアン・ナイト」の話をきいたり、母の洗濯屋の手伝いで行った牧師の家から「ハムレット」や「リア王」を借りて読んでいました。

生活は苦しくアンデルセンも織物工場ではたらくようになります。母は靴職人と再婚しますが、このころから飲酒が習慣になります。このころアンデルセンは俳優を夢見て歌の練習ばかりしていました。歌はうまかったらしく貴族のパーティによばれるようになり、オーデンセの宮殿でクリスチャン王子の前で歌うことになります。周囲は希望をきかれたら「ラテン語学校へいきたい」というようにといいますが、アンデルセンは「俳優になりたい」といいます。しかし王子はそれほどの才能は感じないので、手に職をつけるようにというのでした。

しかし、あきらめきれないアンデルセンはためたわずかなお金と、コペンハーゲンの王立劇場の人気女優ショル夫人あての紹介状をもち、14歳でコペンハーゲンへいきます。
途中船で知り合いになった夫人が、心配して住所を教えてくれました。

しかし頼りの紹介状はあまり役にたたず、無理に演技をみてもらうも、ショル夫人には追い出され、王立劇場のラーベック先生にも認めてもらえませんでした。アンデルセンは残ったお金でお芝居をみて、やはり俳優になりたいと考えますが、お金がありません。船で知り合った夫人を訪ね、工場の仕事を紹介してもらいます。
しかし、仕事は続きませんでした。

王立劇場の音楽学校の校長シボーニ氏を訪ねたアンデルセンは、身の上話と歌声でなんとか声楽の授業をうけられるようになりますが、半年後に声がダメになりオーデンセに帰れと言われます。
しかし、立ち直りが早く前向きなアンデルセンは歌がダメなら踊があると、バレエ学校のダーレン教授に頼んで学校にいれてもらいます。一度は舞台に立って役もつきますが、こちらも才能がないと王立劇場をやめさせられてしまいます。17歳でした。

しかし、今度は作家になることを思いつき、戯曲を書いて王立劇場に送り続けます。その一つが魅力があると認められるが、文法がめちゃくちゃなのでラテン語学校へいくようにといわれ、枢密顧問官ヨナス・コリンの援助で給費生としてスラゲンセにあるラテン語学校に通い始める。しかし、校長のマイスリングにいじめられ、家に下宿させられ、小守や家事をおしつけられます。この事態は知人によってコリンにしらされ、アンデルセンはやっと退学することができました。22歳のときです。
この学校にいる間にオーデンセの母親を訪ねていますが、母親は相変わらず貧しい暮らしをしていて、お間が自慢だよ話していたそうです。

コペンハーゲンに帰って翌年大学入学資格試験に合格。大学に通いながら小説や戯曲を発表。戯曲は大好評でしたが、お金にはならないためアンデルセン自体は相変わらず貧しく、曜日ごとに訪ねる家をきめて食事をごちそうになっていました。アンデルセンは生涯で何度も旅行していますが、旅行費用も援助してもらっていたそうです。

女性にも何度が恋したようですが、すべてうまくいかず、生涯独身でした。
しかし、傷心を忘れるため旅にでて、それをもとに旅行記などを描いていたようです。
特に38歳のときであったスウェーデンの歌手ジェニー・リンドには結婚してほしいと考えていたようですが、純粋すぎるアンデルセンは夫としては向かないと敬遠されていたようです。この失恋のあともイギリスなどに旅行にでかけています。

1833年旅行中に母が慈善病院でなくなりました。少しは有名にはなったものの、お金のなかったアンデルセンは生涯母に楽な生活をさせてあげることはできなかったのです。
55歳のとき国王フレデリック7世に年金の額を尋ねられ、600リークスダラーと答えたところ、国王は、「あなたほどの作家に対して少ない」といったそうです。アンデルセンは「作家に必要なのはお金ではなく名誉で、多くの友人がささえてくれるので心配ない」と答えています。
事実、一生作品では食べられず、ヨナス・コリンがなくなったあとはメルキオール家の援助をうけ、かれらの別荘で暮らしていました。

1835年30歳のときの小説「即興詩人」が大評判になります。その後童話集「子どものために話して聞かせる話」を出版。童話というジャンルはなかったため、なぜ子供の話など書くのかといわれたりしたようですが、幼い子供を喜ばせるのも立派な仕事だとの信念のもと書き続けます。

作品がみとめられ、王立劇場で上演する戯曲に国王陛下が来るほどになったアンデルセンですが、両親が貧しい生まれであった故の差別は生涯うけていたし、結婚の妨げにもなっていたようです。
みにくいあひるの子は彼自身でもありました。

旅行では有名な作家に会い、親交を深めました。みなアンデルセンの著作をよんでいた歓迎されたといいます。ドイツのグリム兄弟、イギリスのチャールズ・ディケンズなどです。

晩年はドイツとの戦争の悪化で頭を悩ませた時期もありましたが、パリの万博に旅行にいったり、執筆活動をし、62歳のとき枢密顧問官の称号とオーデンセの名誉市民になりました。

1875年70歳で亡くなり、国葬になりました。いまでもデンマークには「人魚姫」「ある母親の物語」の死神、「野の白鳥」などの像があります。生涯で150以上の童話を書いたアンデルセンは童話の王様とよばれています。


アンデルセン―世界じゅうで愛される「童話の王さま」   学習漫画 世界の伝記

アンデルセン―世界じゅうで愛される「童話の王さま」 学習漫画 世界の伝記

  • 作者: 森 有子
  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 1996/07/19
  • メディア: 単行本



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学習漫画 世界の伝記 モンゴメリ [人]

読み着せ時間 小6男子自分で読んで20分
ウケ度 特に何もいっていなかったが、一応最後まで読んでいた
印象度 思ったより不幸な人生でした

ルーシー・モード・モンゴメリは1874年プリンスエドワード島で生まれた。
父は元船乗りでモードが生まれた時は島で雑貨屋をやっていました。
モードが1歳9か月のとき母クレアラが肺結核で亡くなり、モードは島にある母の実家、人口100人ほどのキャベンディッシュ村で祖父母に預けられました。父親はカナダ本土で働くことになりました。

祖母はしつけにうるさく、モードが下品な言葉を使ったり、村の子どもたちと遊んだりするのをいやがりました。モードは木や石に名前をつけて想像力を使って遊ぶのが大好きな子供で、ひとりぼっちでも祖母のいうことをきいて育ちました。母の実家は大きな農家でおじいさんは村の郵便局もやっていました。
赤毛のアンのマシューとマリラのモデルはこの二人ではないかといわれています。
また、赤毛のアンにでてくる幽霊の森や果樹園も、ここに原点があります。

おばのメアリー・ローソンはお話が上手で一族の話をモードにたくさんしてくれました。母の実家マクニール家も父の実家モンゴメリ家もスコットランドの名家で、18世紀中ごろプリンス・エドワード島に移ってきたのです。
小学校にあがるころには、マクニール家に下宿している男子の兄弟や親友のアルマと遊ぶようになり、それらもアンの人物たちのモデルになったようです。

9歳のとき島の沖で帆船マルコ・ポーロ号が座礁。船長を家で世話したときのことを作文にかき、文通していた父親に見せると、父親が文才があるといってくれ、これが作家をめざすきっかけになる。

1889年15歳のとき学校の友達と「物語クラブ」をつくる。それまでも作品をつくり新聞や雑誌に詩をおくっていたが、採用には至らなかった。しかし書くことが大好きで、作家になりたいと思う気持ちは強くなっていた。
このころ古い日記を燃やして、その後53年間欠かさず書き続ける日記を書き始める。

1890年父親のくらすカナダ西部の町プリンス・アルバートにいき、父親と新しい母親と妹と暮らす。
しかし、母親はモードを女中のようにこき使い、学校にもいけなくなったため、1年後プリンス・エドワード島の祖父母のもとに戻る。
この間に初めて作った詩がパトリオット新聞にのる。父親は喜んでくれたが、母親はくだらない詩をかくより、食事の支度や洗濯をするようにというだけだった。

当時女の仕事は育児と家事と考えられていたこと、女性で作家として生活している人がいなかったこと、加えて住んでいたので田舎であったこともあり、その後一生ついてまわることになる。
祖父母のところに戻り教師になって収入をえて、作家になる夢を追いたいというモードに祖父母は反対。
モードは一人で勉強し、島で5番の成績で大学に合格。1年間だけ学費をだしてもらって教師の資格をとり、バイオフォードという漁村の先生になる。
しかし子供たちには学ぶ意欲がなく、教師生活は楽しみの少ないものであったようです。1年間の教師生活でお金をためると、ダルハウジー大学の英文学を学びます。このころにもいくつかの作品が雑誌にのりましたが、まだ原稿料をもらえるほどではありませんでした。しかし、フィラデルフィアのゴールデンデイズ社が5ドルで作品を買ってくれ、モードは記念に試臭を買います。

しかし、大学を続けれられるほどではなく、1年後再び教師になったモードはプリンス・エドワード島のベルモントという村の先生になります。これは最初の村より子どもたちの質も悪く、下宿先の待遇も悪かったようです。さらに冬は零下30度の寒さで朝起きて書き続けるモードにはつらいものでした。

1年後島の南部ロウアーベデックへ転勤になります。
ここでリアードという農家に下宿しますが、そこの長男ハーマンと恋におちます。モードは22歳でした。
モードは結婚したいと思いましたが、農家の妻になれば作家を諦めねばならず悩みます。
ハーマン自身も文学にはまったく興味がなかったようです。
このころキャベンディッシュの祖父が亡くなり、モードは祖母を助けて郵便局と農家をやっていくために、ハーマンと別れて実家に戻ります。その一年後ハーマンはインフルエンザに亡くなり、モードはそれを新聞で知ります。

家の手伝いをしながら作家として作品をかき、送り続けるモードでしたが、いろいろな雑誌にのるようになっても祖母は結婚もしないで変わり者だと嘆き、周囲の理解もありませんでした。1900年には唯一の理解者父親もなくなってしまいます。モードは打ちのめされしばらく作品をかけませんでした。

1901年、モード26歳のとき、大学の友達の紹介で「デイリー・エコー」誌で働くことになる。祖母は新聞記者なんてとんでもないと大反対したが、いとこのフレデリカ・キャンベルが説得に協力してくれてなんとか実現する。モードはわくわくと楽しく働くが、フレデリカが祖母があつかいにくくて困ると訴えたため9か月で退職し島に帰ります。

このころには作家として依頼が来るほどになっていましたが、日常の生活は料理したり、裁縫をしたりして祖母の面倒をみる毎日でした。
日曜学校新聞の連載小説をたのまれたモードは、10代のころから書き留めていたアイデアノートから「年老いた夫婦が孤児院に男の子を申し込む、間違って女の子がつれてこられる」というアイデアを基にアンをつくりだします。結局物語が膨らんで連載小説には使えませんでしたが、モードは1年かけて「赤毛のアン」をかきあげて出版社に送ります。4つの出版社におくるも不採用で、原稿は1年間クロゼットで眠ることになります。

このころ牧師のユーアン・マクドナルドと知り合い、結婚を申し込まれる。モードは31歳で、家庭はもちたいと思うものの、ハーマンに感じたような愛情は感じられなかった。しかしフレデリカの勧めもあって結婚は現実的なものとわりきり婚約、その後ユーアンが勉強のためスコットランドへいったため結婚は1911年ユーアン40歳、モード36歳のときになりました。

この離れている期間にモードは「赤毛のアン」の原稿を読み返し、もう一度だけ送ってみようとアメリカのL・C・ページ社に送り出版にこぎつける。1908年初めての長編小説「赤毛のアン」が出版されると爆発的ヒットとなり、世界中からファンレターが届く。またマーク・トウェインからも手紙をもらう。しかし祖母は関心をしめさず家事をしろというばかりで、お手伝いさんをやとおうというモードの話には耳をかさなかった。結局モードが結婚する直前になくなるまで、この態度は変わらなかった。

結婚後二人はイギリスへ10週間の旅行にでて、そのまま夫の職場オンタリオ州リースクデールの教会に住む。小さな村では突然有名作家になったモードへの視線はあまりよくなかったようです。
リースクデールではモードは牧師の妻として懸命に働きながら「アン」を書き続けました。このころには世界中から続編を書くように圧力がかかていたのです。
さらに1912年長男チェスター、三年後にスチュアートが誕生。牧師の妻、母、作家の仕事をこなし、さらに講演会や朗読会にもでかけていました。二人の子どもはお手伝いさんを頼むこともありました。

夫ユーアンは、流行作家の収入のある夫人をもつという、当時としてはまれな境遇であることもあり、結婚後は重いうつ病を患っていました。モードは周囲にわからないように気を使い、病状がよくなるようにと保養にいったりしました。プリンス・エドワード島にはグリーン・ゲイブルズ・ハウスを建て、保養にいき、自分の原点を確認し、仕事場に写真を飾っていたそうです。
こういった生活は実に20年にわたっていました。
気さくで話し上手なふたりの子どものやさしい母であり、村のために尽くす牧師夫人であり、そして有名な作家という超多忙な生活のうえに、夫のうつ病を世間から隠す気苦労で、モードは次第にねむれなくなっていました。
カナダ連邦成立50周年記念パーティでイギリスの首相に「アンのような主人公をつくるあなたも同じような方だと思っていました。お幸せな人生ですね。」といわれ「そうありたいと願っていることを小説にかいているだけかもしれません。」と答えています。

ユーアンについてオンタリオ州ノーバルに引っ越した一家でしたが、ユーアンのうつ病が悪化。記憶を失うようになったため牧師の仕事を続けられなくなり、トロントに引っ越します。相変わらずものに名前をつけるモードはここを「旅路の果て荘」と名付けます。
息子たちも成長し、牧師の妻としての仕事からも解放され、書きたいものが書けると思ったモードでしたが、世間はモードにアンの新作ばかりを期待するのは閉口したようです。

それでも世間の期待に応えて「アン」を描き続けます、
ユーアンの病気の世話で夜も眠れず、第二次世界大戦で息子たちが志願兵になる恐怖など心労がかさなり睡眠薬の量が増え、1942年67歳で亡くなります。翌年には夫もなくなり、故郷キャベンディッシュの共同墓地に葬られます。

モードの日記は遺言で死後50年間封印されました。それによると、つらい生活の中で書くことだけが喜びであったことが述べられているということです。


学習漫画 世界の伝記―集英社版 (〔34〕): モンゴメリ

学習漫画 世界の伝記―集英社版 (〔34〕): モンゴメリ

  • 作者: 高瀬 直子
  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 1995/11/17
  • メディア: 単行本



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アガサ・クリスティー―名探偵ポアロを生んだ「ミステリーの女王」 [人]

読み着せ時間 小6男子自分で読んで20分
ウケ度 コナン君の影響でシャーロックホームズは好きなので同じミステリーということで興味はあったようだ
印象度 思ったより波乱万丈な人生でした

1890年イギリスの何先負トーキイでアメリカ人実業家の娘として生まれました。上には兄と姉がいて、10歳くらい年上でした。アガサは年の離れた末っ子として両親のもとで愛されて育ちました。

6歳のとき、父の病気のためフランスですごし、姉を訪ねてパリにも行きました。フランス語も習い外国への憧れを強くしました。冬には一家はイギリスに戻りました。

1898年アガサは8歳になり、シャーロック・ホームズを読んだり、ピアノを弾いたりする毎日を送っていました。
このころ兄のモンティは義勇兵になり、父親は病気でなくなります。

姉は小説をかいており、アガサにも進めてくれていました。
1905年15歳になったアガサはトーキイの学校にかよっていましたが、母親の勧めで一人前のレディーになるためパリの上流社会の娘が社交界デビューするための学校に入学しました。声楽家になろうかと考えていたアガサでしたが、才能がなさそうとあきらめかけていたころ、母親からエジプトのカイロで過ごすよう手紙をもらい、学校をやめて出かけます。
16歳になったアガサはカイロで社交界デビューしますが、華やかな世界より小説を書く方が好きでした。しかしこの時の体験も小説の参考にするため書き留めていました。

母親とイギリスに戻り小説や詩をかいて出版社に送りますが不採用。
母親のすすめで近所に住む作家イーデン・フィルボッツの指導をうけます。

1809年アガサが18歳のとき、姉が訪ねてきます。このときアガサがガストン・ルルーの「黄色い部屋の秘密」を読んでミステリーを書きたいというと、姉がミステリーは難しいから無理とけなし、このときアガサはミステリー作家になるときめたといいます。

家では小説をかき、近所の社交界にも参加していたアガサでしたが、1912年陸軍航空隊のアーチー・クリスティーに出会い、二人は惹かれあい結婚しようとしますが、母親は他の縁談がまとまりかけていたこともあり、時期が悪いと二人を止めます。
やがて第一次世界大戦が勃発。戦争は長引き、アガサもボランティアで看護をするようになります。
1914年クリスマス休暇で帰国したアーチーとアガサは二人きりで結婚式を挙げます。しかしアーチーはすぐに戦場にもどります。

アガサはトーキイの病院の薬局で調剤の仕事を手伝うことになり、このとき薬剤師の資格をとることを決意します。ミステリーで毒薬を使うこともがんがえていたようです。
またベルギーから逃げてきた人たちをみて、エルキュール・ポアロを考え付きます。
そして「スタイルズ荘の怪事件」とうミステリーを書きあげますが、どの出版社にも送り返されます。

1918年、アーチーは無事に帰国し、町の会社に勤めるようになり、二人はロンドンで暮らすようになり翌年には長女ロザリンドが生まれます。
このころ、「スタイルズ荘の怪事件」が以前に送った出版社からでることになり、ポアロが評判になります。

1924年アガサたち一家はサニングデールの広い家に引越し、アーチーはそこを「スタイルズ荘」となずけます。しかし、このころ二人の間はいきちがいが多くなり、加えて「アクロイド殺し」でトリックの批判をうけ、さらに母親がなくなるという不幸が続きます。
このころドライブに出かけたアガサが行方不明になり、その後ハロゲートのホテルで発見されるという事件がおきます。
結局このあとアーチーと別居し、その後離婚します。

創作に打ち込んだアガサは「火曜クラブ」でおばあさん探偵ミス・マープルを誕生させます。
好奇心と行動力にも富んでいて、友人の一言からオリエント急行にのりイスタンブールを訪れます。
この体験もその後「オリエント急行殺人事件」へと発展します。
イスタンブールから、古代バビロニアの遺跡ウルにいったアガサは、有名な考古学者レナード・ウーリーに出会い、発掘シーズンに来るようにすすめられます。

1930年再びウル遺跡を訪問したアガサは専属ガイドとしてウーリーの助手マックス・ローワンを紹介されます。
アガサの方が14歳年上でしたが二人は惹かれあい結婚します。
アガサはその後マックスの発掘の手伝いをすることになります。一方でミステリーのアイデアを次々と作品にして発表「オリエント急行殺人事件」「ABC殺人事件」「そしてだれもいなくなった」などはこのころの作品です。

1939年、第二次世界大戦が勃発。マックスは国防市民軍、アガサはロンドンで薬剤師として働きました。娘のロザリンドは結婚してウェールズに移り住むことになりました。
このころロンドンも空襲にあい、命の危険を感じたアガサは遺作となる作品を書き残しておくことにします。

1943年「そしてだれもいなくなった」がお芝居として上演され、アガサは脚本を担当大評判となり、12本の脚本を書きました。

1945年戦争終結、マックスがもどり一緒に暮らすようになります。
その後メアリー皇太后の希望でラジオドラマ「3匹の目の見えないネズミ」をかきます。
またこのころから年1作の割合で作品を出すようになります。アガサは60を超えていました。
1963年まではマックスの発掘の手伝いもしていました。

1971年81歳でデイム(ナイトにあたる女性の爵位)に叙せられます。
このころでも作品は発表していましたが、娘のロザリンドが口述筆記するようになっていました。

1976年、夫と娘と孫にみとられて85歳で生涯を閉じました。
作品は長編66冊と短編20冊におよびました。



アガサ・クリスティー―名探偵ポアロを生んだ「ミステリーの女王」   学習漫画 世界の伝記

アガサ・クリスティー―名探偵ポアロを生んだ「ミステリーの女王」 学習漫画 世界の伝記

  • 作者: 森 有子
  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 1995/11/17
  • メディア: 単行本



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ジャンヌ・ダルク フランスを救ったオルレアンの乙女 [人]

読み聞かせ時間 小6男子自分で読んで20分
ウケ度 まあまあ
印象度 ジャンヌの活躍した期間は本当に短かったなあ

1412年1月6日、フランス東部ドンレミ村の農家にジャンヌは生まれました。上には3人の兄がいました。
当時のフランスは100年戦争の最中で、フランスはフランス王家に味方するアルマニャック派と、イギリスに味方するブルゴーニュ派に別れ戦いが続いていました。フランス王家の王太子シャルルは即位することもできず、シノンに閉じ込められた格になっていました。

1425年、ジャンヌは初めて「声」を聴きました。声は信仰を促すもので、ジャンヌは声に従って良く働き協会に通いました。
ある日声は「王太子シャルルにあって、フランスを救え」と告げます。ただの農村の娘で読み書きもできないジャンヌにとって思いもよらないことで、最初はとても信じられませんでした。
しかし、これをおじの「デュラン・ラクサール」に話すと、おじは「フランスは一人の人妻によってほろびかけ、ひとりの乙女によって救われるだろう」という予言の乙女がジャンヌであると信じてくれる。

声を聴いてから3年後、ジャンヌはおじさんにつれられてポークルール守備隊長ボードリクールを訪れ増す。お告げでは彼が王太子に会わせてくれるといっていたからです。しかし、最初は頭がおかしいと追い払われてしまいます。

1428年オレルアンがブルゴーニュ派に包囲されました。お告げの声はジャンヌに急ぐように告げ、ジャンヌはもう一度ポークルール守備隊長のところにいき、あってくれるまで何度も城門に通いました。ジャンヌの行動は評判を呼び、守備隊長はとうとう王太子のところへジャンヌをつれていってくれることになりました。

ポークルールから王太子のいるシアンまでは敵がたくさんいましたが、神のお告げによりジャンヌは敵にあわずにシアンまで進むことができました。
シアンでは皇太子の側近たちがジャンヌを試すため、出迎えのなかに粗末な身なりの王太子を紛れ込ませていました。ジャンヌが本物ならわかるはずだというのです。
ジャンヌは見事に王太子の前にすすみでて、神のお告げにより来たと話王太子を喜ばせたのでした。

その後ポアチエにある大学で審問をうけ、本物であると認定されたジャンヌは軍隊を率いてオレルアンに向かいます。司令官に任命されたジャンヌは百合を模した軍規と優秀な副官をつけられます。
途中川をわたるのに風向きがかわるなどの現象が起き、副官たちも次第にジャンヌが神の遣わした娘であることを信じていきます。

オレルアンの守備隊長も最初はジャンヌを疑っていましたが、ジャンヌの言葉に従って勝利を重ねるうちに次第にジャンヌが神の使いであると信じていきます。
他には自分が負傷する日をいいあてたり、安息日を守って戦わないでいる間にイギリス軍が撤退したりしたことがあったようです。

ジャンヌの活躍によって190日間にわたる包囲からオレルアンは解放され、ジャンヌは王太子を説得してランスに向かいます。そこで王太子を即位させよというお告げがあったからです。途中の町を奪回しながら進みましたが、乙女ジャンヌの旗印のもと敗北はありませんでした。
1429年7月17日ランスにてシャルル7世即位。ジャンヌは村に帰ることも考えますが、副官たちの引き留めで軍にとどまります。

シャルル7世は、ジャンヌのおかげで即位したものの、あまり感謝はしていなかったようで、さらには戦争はあまりすきではないとブルゴーニュ公と和平を結ぼうとします。
狡猾なブルゴーニュ公は和平に応じるふりをして、援軍を呼びます。あわててジャンヌに攻撃させるシャルルですが、一方では和平交渉をすすめ、ジャンヌたちに突然の解散命令を下します。

ジャンヌは軍にのこり国王軍として戦っていましたが、1430年コンピエーニュの町を解放にいったとき、守備隊長に城門をしめられ敵軍につかまります。しかし、シャルル7世は和平を優先させジャンヌを見捨てたのでした。オレルアンの人々はジャンヌの解放を訴えますが、ジャンヌはイギリスに売り渡され北フランスのルーアンに送られてしまいます。

イギリス軍はジャンヌを魔女にしたてあげ、自分たちの敗戦をとりつくろい、シャルル7世の名誉を傷つけようと一方的な裁判を行います。
そしてジャンヌに異端だと認めなければ火あぶりにすると威します。
火あぶりになると死体がないため、最後の審判で天国にいけなくなることを恐れたジャンヌは一度は異端であることを認めます。

しかし嫌がらせは続き、教会の裁判なのに戦争捕虜の扱いをうけ、男ばかりの牢獄にいれられてしまいます。異端の理由は男の服を着ているからなので、女の服をきさせられたのですが、男たちに狙われるため再び男の服を着ました。

教会はそれを理由にジャンヌを「もどり異端」として火あぶりにしました。1431年5月30日19歳のときルーアンの広場で刑が行われ、ジャンヌは十字架をみせてくれといいながら亡くなりました。見ていた人々は魔女ではなく、聖女を焼き殺してしまったのではないかと恐れました。

1950年、ルーアンを訪れたシャルル7世はジャンヌの裁判のやり直しを命じます。大勢の人がジャンヌの信心について証言し、1456年ジャンヌの処刑裁判の取り消しが宣言されたのでした。

ジャンヌ・ダルクを有名にしたのはナポレオンで、それまでは「乙女ジャンヌ」などとよばれ一部で有名なだけだったようです。

20世紀にはいってからカトリック教会がジャンヌを聖人の一人に加えています。


ジャンヌ・ダルク フランスを救ったオルレアンの乙女 (学習漫画 世界の伝記)

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  • 作者: 高瀬 直子
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