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アインシュタイン―相対性理論を生みだした天才科学者 [人]

読み聞かせ時間 大人が読んで20分
ウケ度 またしても子どもたちが読んでいないのでわからない
印象度 ちょっと変わっている部分が思い切って端折ってある。

1879年、統一されたばかりのドイツ南部の町ウルムで、アルベルト・アインシュタインは誕生した。
父親は電気工事店を営むユダヤ人のヘルマン・アインシュタイン。
1歳の時、一家はおじのヤコブとともにミュンヘンに引っ越した。
父親とおじは、電気関係の小さな工場を経営した。
小さいころは言葉の遅い子で両親は心配したという。
父親は「しゃべるより、考える方が得意なんだ」と母親はなだめたという。

父親やおじに質問しまくりながらアルベルトは大きくなりました。
小学校では暗記が不得手で成績はそれほどよくはありませんでした。
9歳でギムナジウム(小学校と中学校をあわせたような学校)に進学し、このころ、おじからユークリッド幾何学の本をもらい、数学のおもしろさに目覚めたという。
一家はユダヤ人の家の習慣で週に2回貧しい学生を夕食にまねいてあり、彼らからも物理や天文などの本をよませてもらい、科学への興味を強めていった。
一方で軍隊は嫌っており、友達が軍隊のパレードに誘ってもいかなかった。

父親の工場は経営がうまくいかなくなり、一家はミラノに越すが、15歳のアルベルトは1年後にギムナジウムの卒業を控えていたので、下宿して残ることにする。しかしホームシックにかかり学校を中退して(大学をあきらめ)ミラノへ行く。

父親は大学へいくようにすすめ、アルベルトはスイス連邦工科大学を受験するが不合格になる。しかし数学と物理で最高点をとっていたのを学長が認め、アーラウ州立グムナジウムを紹介してもらい、1年間勉強をする。
このころ、自分が光の速さで光を追いかける夢をみて、このとき光が目に届かないので、何も見えなくなるのかなど思考実験をして相対性理論の素になる着想を得る。

翌年スイス連邦工科大学に入学、マルセル・グロスマン、フリードリヒ・アドラー、ミケーレ・ベッソー、ミレーバ・マリクと友達になる。
ミレーバとは親しくなり、結婚の約束をする。

1900年大学を卒業したが、数学か物理を教えたいという夢はかなわず、落胆していると、マルセルが父親のくちききで、ベルンの特許局の仕事を紹介してくれる。
特許局での仕事の何よりよかったのは、研究の時間がたっぷりとれることで、アルベルトは通勤の道や公園、特許局のデスクやアパートなどで研究をした。
ミレーバと結婚。
1905年26歳のときには、光を粒子と考える光の発生と変換に関する発見的な見方について」という漁師力学分野のさきがけの論文を発表。のちにノーベル賞をとる。さらにブラウン運動が水の分子の運動であること、光の速さが絶対であるとき、時間と空間が相対的である、そして質量とエネルギーは等価であると結論する。この年を「アインシュタインの奇跡の年」と呼ぶ。

最初はなかなか認められなかった特殊相対性理論だが、ポアンカレやキュリー夫人が認めるようになると、世間も少しづつ変わり、アルベルトはベルン大学に物理学を教えるようになる。
30歳の時にはチューリヒ大学で助教授になる。
1911年には歴史あるプラハ大学に招かれる。この年、科学者の集まる会議がベルギーのブリュッセルで開催され、アルベルトも出席、キュリー夫人らの大科学者と会う。
この年には光が重力で曲がるという説を発表する。


プラハではチェコ人とドイツ人の対立が深まっており、戦争を嫌ったアルベルトは、母校スイス連邦工科大学の正教授に招かれてチューリヒに戻る。ここでマルセルと再会。数学分野でマルセルの力を借りて一般相対性理論を完成させる。

1913年、ドイツからプランクとネルンストがアルベルトを訪ね、ベルリン大学の教授にむかえ、プロシア科学アカデミーの会員になってくれと伝える。
会員になることは科学者にとって特に名誉なことであった。
しかし、ドイツがきらいなアルベルトは迷った。結局マルセルの勧めでベルリンに行くが、ミレーバはベルリンが肌にあわず、チューリヒに戻ってしまう。

ドイツ国内では軍備の拡張が進み、アルベルトは科学が戦争に利用されることを恐れる。
1914年第一次世界大戦勃発。アルベルトは反戦姿勢をみせ、ヨーロッパの平和と統一をよびかける「ヨーロッパ人への宣言」に署名する。

1916年一般相対性理論が完成。1919年の日食の観測で証明できることがわかる。
1917年アメリカが参戦。このころアルベルトは胃潰瘍を患うがドイツの病院は兵隊でいっぱいで入院できなかった。自宅で療養する彼をいとこのエルザが看病し、二人はのちに結婚する。
戦争は終結し、日食の観測から一般相対性理論が証明される。

アルベルトの相対性理論は新聞や雑誌にとりあげられ、アルベルトは有名人になる。
このころ日本の出版社の発案でアルベルトを日本に招く計画が持ち上がり1922年に実現。
日本に来る途中でノーベル賞の知らせが届く。賞金はすべてミレーバに送ったという。
日本では各地で公演し、大人気だったという。

1923年ドイツに戻るが、ナチスが次第に台頭。ユダヤ人迫害が始まる。アインシュタインは平和運動に協力するが1928年にスイスで倒れ、心臓肥大症と診断され療養する。
1929年には「重力と電気の統一場理論」を発表。注目される。

1930年アメリカのカルフォルニア工科大学客員教授として3年間の約束で渡米。
アメリカでも平和運動をすすめるが、ドイツではナチスが勢力をのばし、相対性理論をみとめないといわれる。
1933年、ドイツへ帰る途中でナチスはアインシュタインの別荘に武器があったとして銀行預金や財産を封鎖。アインシュタインはベルギーまでいくがナチスは一部の本を禁書にし、相対性理論の本もそこに入り、しかも暗殺計画もささやかれ、とうとうアインシュタインはプロシアの科学アカデミー会員を辞し、アメリカにわたる決意をする。

1933年プリンストンにできたての高級科学研究所の終身会員になる。
1936年妻のエルザを亡くす。

1939年にドイツがウラン原子を核分裂させる実験に成功。
科学を兵器に利用することに反対してきたアインシュタインでしたが、ドイツが核をもつ恐怖から、周囲の勧めもあって、アメリカ大統領に原子爆弾をつくることを進める手紙を書き、のちにそれが日本におとされたことを一生悔やんだという。そして残りの人生を平和運動にささげた。
ただし、原子爆弾についても、手紙以外は一切協力はしなかった。

70歳の時、イスラエルの大統領に推薦されるが断る。
しかし、死後の著作権をヘブライ大学に送り、同じユダヤ人としての立場を示した。

1955年核兵器の廃止を目指す「ラッセル・アインシュタイン宣言」にサイン。
その1週間後息を引き取る。76歳。




アインシュタイン―相対性理論を生みだした天才科学者 学習漫画 世界の伝記

アインシュタイン―相対性理論を生みだした天才科学者 学習漫画 世界の伝記

  • 作者: よしかわ 進
  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 1992/11/20
  • メディア: 単行本



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