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ファーブル 『昆虫記』を書いた虫の詩人 [人]

読み聞かせ時間 子どもたちは読まなかった。大人が読んで15分程度
ウケ度 虫はあまり好きじゃないせいか、よんでくれなかったな
印象度 昆虫記を読んでいたので、あまり目新しいことはなかったが、あらためて元気な人だなあと思った。

1827年フランスの南部のサン・レオン村で生まれたアンリ・ファーブルは、家が貧しかったため3歳で祖父の家に預けられることになりました。大きな祖父母の家で大勢の従姉妹と大自然にかこまれてのびのびと育ちました。
夜暖炉の前で祖母が話してくれるお話が大好きで、特にオオカミの話をせがんでいたといいます。

6歳の時学校に入るためにサン・レオン村に戻ります。名付け親であるリカール先生の学校に通いABCを習いました。学校は先生の家にあり、しょっちゅう動物の出入りするのどかなものでした。
ある日家の仕事を手伝っていたファーブルは石の中に光るものをみつけ持って帰りますが、水晶や雲母アンモナイトの化石などでお金にはならず両親におこられたといいます。

9歳のとき大都市ロデーズに引越し両親はカフェを始めます。アンリは司祭のミサの手伝いをするかわりに学費をただにしてもらい、王立学院に通うことになります。成績は優勝で、休みには友達と川や牧場で元気に遊ぶ生活でした。

両親のカフェはうまくいかず、引っ越しが続き、アンリは14歳で学校をやめて働きました。しかし本が大好きでお昼もたべずにお金をためて買っていたということです。
1839年アンリはアヴィニヨン師範学校の試験をうけ一度の試験で1番の成績で合格しました。まずしい学問好きの少年にとって師範学校の給費生になることだけが、唯一の学問を続ける道でした。

在学中も3年分の勉強を2年で終わらせて教員の免状をとってしまいました。
勉強もしたましたが、昆虫の観察も大好きでした。
卒業のお祝いに化学の実験で酸素を発生させる実験がおこなわれ、詰めかけた生徒たちがけがをするという参事がありました。しかし、アンリはかえって化学への興味をかきたてられたといいます。

1842年カルパントラの小学校の先生になったアンリはこの実験を行い成功させました。
また実験だけでなく教え方もうまく評判の高い授業をするようになりました。
このころ野外実習で生徒が蜂の巣から蜜をストローですっているのをみて、ハチに興味をもち給料の1か月分をはたいて「節足動物誌」という本を買いました。そして昆虫学のことを知りました。

ファーブルには20歳で結婚したマリーという教師の妻がいて、こどもが二人いましたが二人とも小さいうちに亡くなりました。ファーブルはいっそう勉強に打ち込み独学で数学と物理の博士号を取得、25歳のときコルシカ島の高等中学の教師になります。

コルシカ島ではめずらしい自然をきにいって観察や収集を続けていました、このとき島にきていたトゥルーズ大学のモカン・タンドンと出会い、博物学の講義をうけ、博物学をやるようにすすめられます。しかし数学も好きだったファーブルは悩んだといいます。

1853年ファーブルは物理の教師としてアヴィニヨン師範学校にもどりました。
ここで以前買った「節足動物誌」の著者レオン・デュフールの本をみつけ、昆虫の生態研究という学問分野があることを知ります。

デュフールの本にでてきたタマムシツチスガリというハチがタマムシを狩り、幼虫の食料として土にうめておくが、タマムシが腐らないという記述を読み、自分でその謎をとこうと自然観察を続け、ついにハチがゾウムシの神経を刺してうごけなくすることを突き止め論文を発表します。この論文でフランス学士院から実験生理学賞与えられました。自分の説を覆されたデュフールもファーブルに手紙をおくり素晴らしい発見だとよろこんでくれました。

昆虫の生態学を続けることにしたファーブルでしたが、教師には自由に観察をする時間があまりないのを不満に思っていました。しかし教師の仕事も熱心につづけ生徒には慕われていました。
ファーブルは大学の先生になることを希望していましたが、学校を訪れた文部省の視学官に大学の先生の給料が少ないことをきかされ、生活を安定させるためアカネの研究に力をいれることにします。アカネから布を染めるアリザリンという染料を簡単にたくさん取り出す研究をしてお金を手に入れようとしたのです。
また、小中学生の科学読み物も書いていました。

研究の最中にファーブルのもとにはパストゥールが訪れますが失礼なものいいで、すぐ帰ってしまったいいます。
一方で文部大臣のヴィクトール・デュリュイ氏が訪れ、なにもねだらず黙々と研究するファーブルをほめたたえることもありました。しかしファーブルは人前にでるのがきらいで、あまり喜ばなかったいいます。

1866年42歳のときアカネの研究は一旦成功しますが、すぐに人口合成の方法が開発され、お金儲けはできませんでした。

44歳のころパリの出版社社長シャルル・ドラグラーヴのところから出した科学読み物が好調で、ファーブルはお金を稼ぐためにそこに力をいれるようになる。

教えるのがうまいファーブルは市民対象の公開講座の先生も務めるが、大臣と知り合いなのを鼻にかけているとか、女性の前で花の受精の話などけしからんなど、陰口をたたく人もいました。
学校でも昆虫の観察のために牛の糞をひろうファーブルを学校にふさわしくないなどどいう人がでて、ファーブルはいやになって27年務めた学校を退職します。退職金さえもらえませんでした。

1870年ファーブル一家はオランジュに引越し、ファーブルは本の執筆で妻と5人の子どもを養うことにします。生活は貧しいなかでも順調でしたが、一番ファーブルに似て昆虫の観察が大好きだった息子ジュールが16歳の若さでなくなり、失意のあまりファーブルも肺炎にかかってしまいます。一時は命も危なかったファーブルですが病気から立ち直ると昆虫記の執筆に没頭します。

オランジュの家では大家さんが家の前の並木をきってしまうという事件がおき、自然はそのままがいいという思想をもつファーブルは自分の家と庭をもつことを決意。55歳のときセリニュン村に1軒屋を手に入れます。この庭をアルマス(荒地)と名付けたファーブルはここで昆虫の観察と昆虫記の執筆に没頭します。

しかし、昆虫記はそれまでの読み物より売れず、専門家からは科学の世界に文学を持ち込んでいると批判され、あまり売れませんでした。弟子からは挿絵をいれるようにすすめられますが不正確なものはいれられないと断りました。
しかし、ファーブルを尊敬する人々に支えられファーブルは結婚当初から使っていたぼろぼろの机で執筆をつづけました。執筆中は騒音をきらいとても集中していたといいます。

1885年マリーがなくなり、ファーブルは40歳も年下のジョゼフィーヌと結婚しました。料理が上手で明るい女性でファーブルとの間に3人の子どもがうまれました。ファーブルは子供たちを自分で教育しました。
1889年にはファーブルはフランス学士院からプチ・ドルモワ賞をうけますが、10巻出版された昆虫記はあまり売れず、年金にたよる貧しい生活をしていました。

ファーブルを尊敬しのちに伝記を書いた医師のルグロはファーブルのために式典を計画し実現しました。しかしファーブルは人前にでるのが嫌いでいやがっていたといいます。
式典のおかげで昆虫記は注目され、レジオン・ドヌール勲章をうけたファーブルは暮らし向きが楽になります。しかし、ファーブルが貧乏だと思い込んだ人々から寄付が届き続け、ファーブルは礼状をそえておくりかえしました。

有名になることでファーブルを訪ねる人が増え、ついにはポアンカレ大統領までくるようになりました。近所の人たちはファーブルがエライ先生と知って驚いたと言います。しかし、当のファーブルは庭があらされると喜ばず、新聞広告までだして「もう長くは生きないのでほっておいてくれ」といっていました。

晩年には1912年に妻のジョゼフィーヌを亡くし、第一次世界大戦に息子のポールが行くことになり心を痛めます。

1915年、尿毒症にかかったファーブルは家族と友人にみとられて91歳の長い生涯をとじました。
アルマスの庭はパリ自然史博物館の分館として保存されることになりました。

昆虫記は観察の様子やそこでわかったことをつづったものですが、批判や風刺を交えた内容で、ファーブルの人柄がよくでています。昆虫についてはファーブルはすばらしい能力があるが、あらかじめ組み込まれた命令(本能)以外のことはできない存在だといっています。


ファーブル 『昆虫記』を書いた虫の詩人 (学習漫画 世界の伝記)

ファーブル 『昆虫記』を書いた虫の詩人 (学習漫画 世界の伝記)

  • 作者: 高瀬 直子
  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 1993/03/19
  • メディア: 単行本



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