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学習漫画 世界の伝記―集英社版 (〔29〕): レオナルド・ダ・ビンチ [人]

読み聞かせ時間 小6男子自分でよんで20分
ウケ度 読んだあと一生けん命説明してくれていたからおもしろかったらしい
印象度 筆の遅い人だったんだなあ

レオナルド・ダ・ビンチは1452年4月15日にフェレンツェから西に40キロほどはなれたビンチ村でうまれました。
父親は村の地主の息子で公証人をしている人でしたが、母親は農家の娘で二人は周囲の反対で結婚していませんでした。レオナルドは父親の家に引き取られ継母に育てられ、実の母親は別の人と結婚しました。

10歳ごろ学校に入りましたが、ラテン語や算数の点数が悪く、一方絵を描くのは得意で大好きでした。また左利きでした。

ある日父親が知り合いから頼まれた盾の絵をレオナルドにかかせたところ、あまりに見事だったことから芸術家にすることにします。

1466年14歳のとき、フィレンツェのベロッキョ工房に弟子入りします。このころ芸術家をめざすものは13-15歳くらいまでマエストロ(親方)と呼ばれる先生の工房で修業するのが習わしでした。

工房の中でも自分の手足の方をとるなどして筋肉のスケッチをするなど観察をもとにした緻密な絵の基礎を築いていました。

15世紀イタリアは小国にわかれその中でもフィレンツェは芸術の都としてしられていました。ルネサンス(神中心の文化から人間中心の自由な文化への運動)の中心地でダンテ、ボッカチオ、ボティチェリらがいました。芸術家は銀行家のメディチ家の保護のもと活動していました。

20歳の時マエストロになったレオナルドは、ベロッキョの仕事を手伝って彼の作品に天使像を描きました。ベロッキョはあまりの出来栄えに自分はもう絵はかかなくなったといわれています。
またベロッキョのダビデ像のモデルがわかいころのレオナルドだといわれています。

1477年25歳で自分の工房をもちます。絵や彫刻だけでなくリュートを引かせても抜群の万能の天才という評判をもっていました。サン・ドナート修道院の祭壇画として東方三博士礼拝図を制作していましたが、なかなか仕事がすすまずせかされていたようです。結局この仕事は完成しませんでした。
一方で、絞首刑にされた死体や、死刑囚の解剖をスケッチにするなど、人体に対する緻密な観察は続いていました。

1482年れミラノ公、ロドビコ・スフェルツァの招きでミラノに向かいました。しかしミラノ公はリュートが聴きたいと言って絵や彫刻をつくらせてくれませんでした。そこでレオナルドは長い自薦状をつくって送りました。その中で、自分は画家であり、他に建築もでき、大砲や兵器をつくり、水道施設の設計もできる、彫刻もできるので、ぜひミラノ公の父の青銅の馬の彫刻をつくらせてほしいといっています。そこでミラノ公は青銅の騎馬像をつくらせることにしました。同じころ、ミラノのサン・フランチェスコ聖堂の祭壇画もたのまれていました。

しかし持ち前の探求精神のため、スケッチや構想に膨大な時間がとられ、騎馬像に至っては当時の鋳造技術では制作不可能な構図に挑んでいたのでなかなか仕事はすすみませんでした。
また、ミラノに疫病がはやると、町を清潔にしたいと、町の設計図を作ってミラノ公にみせたり(ミラノ公はこんなものより騎馬像を早く作れといった)、空飛ぶ機械や歯車を使った機械、大がかりな舞台装置設計をしたり、寄り道が多くなかなか進みませんでした。
騎馬像のためには馬の解剖もしています。

このころ実の母が未亡人になり困窮していると聞いたレオナルドは母親をミラノに引き取ります。しかし周りから母親だと知られないようにしろといわれ、家政婦として家におくことになりました。

騎馬像の模型が公開されるとレオナルドの名声はイタリア中に広がりました。
このころサンタ・マリア・デレ・グラツェエ修道院の食堂の壁画を頼まれ「最後の晩餐」の制作にかかります。同じ食堂にモントルファノが「キリスト磔刑図」を描くことになっていました。

「最後の晩餐」でもレオナルドは新しい構図、そして絵具も油絵具を使うという新しい試みをしていました。同時に騎馬像もつくっていたのでてんてこ舞いだったようです。しかし騎馬像のほうはいよいよ鋳造という段階でフランスとの戦争が発生。集めた1トンの青銅は武器に流用されて像はつくれませんでした。
レオナルドは最後の晩餐に全力をそそぎました。

このころミラノ公はフランスとの戦争が長引いて財政的に苦しくなり、レオナルドたちの給料も滞るほどでした。レオナルドは給料の代わりにブドウ園をもらうことになりました。
1499年フランスがミラノを落とし、ミラノ公が亡命。レオナルドは芸術から科学へと研究をすすめ、人体や地質、光学など興味のままに進めていました。
しかし、フランス軍が騎馬像を破壊するのをみてフィレンツェにもどる決心をします。

1500年にフィレンツェに戻りますが、町はメディチ家が去ってから活気をうしないつつありました。しかし、ラファエロやミケランジェロらがいて、それなりに活気のある町だったようです。ここで父親の家の1階に工房をもちますが、幾何学や築城法の研究に没頭し、お金にはならなかったようです。

そんなとき、ロマーニャ公、チューザレ・ボルジアの誘いで軍事顧問となり、土木工事や武器の製造などを行いました。
その後フィレンツェの頼みでピサをせめおとすためにアルノ川の流れを変える工事をすることになりました。
また、このころフィレンツェの富豪フェランチェスコ・デル・ジョコンドの依頼で夫人のリザの肖像画を描きます。これが有名なモナ・リザといわれています。完成までに時間がかかっているあいだにリザ夫人がなくなり、レオナルドの手元に絵がのこりました。レオナルドは死ぬまでその絵をもっていたといいます。その後遺言でフランス王に譲られ現在はルーブル美術館にあるというわけです。
1505年、フィレンツェ政庁の大会議場の壁画を依頼され「アンギアリの戦い」を描くことになります、反対の壁はミケランジェロが「カッシーナの戦い」をかくことになり、二人の対抗心はもえあがります。しかし、ミケランジェロは途中で法王ユリウス2世の墓をつくるためにいってしまい。レオナルドのほうも油絵具が流れるというアクシデントがあり両方とも壁画は完成しませんでした。

1506年、レオナルドはミラノを占領しているフランスのミラノ総督シャルル・ダンボアワーズの招待で、3か月の休暇をとりミラノに向かいます。そこで引きとめられ王室づきの画家と建築技師に任命するといわれ、そのままとどまることにした。ブドウ園も返してもらった。フィレンツェ政庁への罰金はフランスが払ったという。
ミラノで「岩窟の聖母」を描いたり、解剖学の研究と解剖図作成、アルプス登山などをして過ごした。

1512年ローマ法王はベネツェア・スペインと同盟を結び、フランスをミラノから追い出すべく軍隊を送り、フランス王ルイ12世は撤退しました。
ミラノにいたレオナルドは弟子のすすめもあって、当時芸術の中心地となりつつあるローマへいくことにします。

ローマでは法王の弟ジュリアーノ・デ・メディチの世話でバチカン宮殿内に落ち着きましたが、仕事の依頼はありませんでした。
結局フランスの新しい王フランソワ1世の誘いでフランスに向かう。

フランスではアンポワーズ郊外にあるクルー城を与えられるが、老齢のためもあり手しびれほとんどデッサンもできなかったといわれている。
1519年遺書をかき、5月2日にクルー城で67歳で亡くなった。葬儀はフランスで行われた。

完璧主義で、興味の幅がひろく、器用な人だったようだ。ただ完成した仕事はあまりなかったみたいだね。


学習漫画 世界の伝記―集英社版 (〔29〕): レオナルド・ダ・ビンチ

学習漫画 世界の伝記―集英社版 (〔29〕): レオナルド・ダ・ビンチ

  • 作者: 古城 武司
  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 1993/03/19
  • メディア: 単行本



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