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ショパン―「ピアノの詩人」とよばれた天才作曲家 [人]

読み聞かせ時間 小6男子で20分
ウケ度 普通
印象度 病弱で繊細な人だったんだな。

1810年、フレデリック・ショパンはポーランド首都ワルシャワ近くの小さな村エラゾボ・ポーラで生まれました。
父のニコラは教師で、当時はスカルベク伯爵の家で家庭教師をしており、母のユスティナは伯爵の遠縁でした。ポーランド民謡がうまい人だったようです。
姉のルトビカはピアノを習っていていましたが、小さいころのフレデリックはピアノの音を聞くだけで泣き出したそうです。フレデリックの指が長いことからピアニストにしようとしようとしたが、無理だと思ったという。

フレデリックが生まれて間もなく、父がワルシャワ高等中学のフランス語とフランス文学の教師となったため、ワルシャワに引っ越すことになる。ここでイザベラとエミリアという妹が生まれる。
このころ姉のルトビカが弾いているピアノを見ていて、いきなり弾いてみせる。両親はフレデリックの才能を確信し音楽家にするためにジブニイ先生に見せることにする。フレデリックはバッハやモーツァルトの古典を学びながら成長し、7歳でポロネーズを作曲。次に作った行進曲は軍楽隊に演奏され、ショパンはワルシャワの天才少年として有名になる。

貴族の館にまれかれて演奏をするようになり、特にラジービウ大公は熱心は支持者でした。
12歳のときジブニイのもとをはなれ。当時ポーランド最高の音楽家といわれたエルスナーの指導をうける。

父親の進めて一流の音楽家になるには教養も必要だからと3年間高等中学にかようことになる。
このころの級友ドミニクの誘いでシャファルア村で夏の休暇をすごし、家族にシャファルア村通信という新聞を送っている。絵もうまかったという。
学校を卒業するころから体調は少しずつ悪くなっていた。妹も肺結核であり、ショパンもそうであったが、妹エミリアの方が重く、温泉療養などをしたが、エミリアは14歳で亡くなる。

悲しみにくれるショパンを父の塾の生徒であり親友でもあったティテュス・ボイチェホフスキが夏の旅行に誘い、ラジービウ大公の別荘で過ごす。ここで大公の娘ワンダにピアノを教えたりしてすごし、こころの傷をいやす。

1828年18歳のとき、初めて国外に旅行にいく、行先はベルリンオペラや演奏会に通う。そしてウィーンやパリへ行ってみたいと思う。
1829年ワルシャワ音楽院を卒業。このとき声楽科にいてコンスタンツィヤはショパンの初恋の人で「ワルツ変ニ長調」は彼女にむけた曲だという。
卒業後はウィーンへいき、エルスナー先生の紹介で有名な音楽家や出版社の人と知り合いになり演奏会をひらいて大成功を収める。
1830年にはワルシャワの国立劇場で正式にデビューする。

フランスでは七月革命が勃発。当時のポーランドはロシア、ドイツ、オーストリアによって分割されており、ほとんどの国土はロシアがもっていました。七月革命の影響で革命の波がひろがりベルギーが独立、ポーランドでも独立運動が高まっており、ショパンの周囲の人たちは彼の才能が失われるのを恐れて国外にでることをすすめます。

1830年11月、ショパン20歳のとき、祖国の土をもってポーランドを出国。ウィーンまで友人のティテュスがついてきてくれました。しかし、ワルシャワでロシアのコンスタンティン大公を追放する反乱がおき、ティテュスは革命に参加するためポーランドに戻ります。みなに「君の仕事はよい音楽を作り続けること」といわれたショパンはウィーンにとどまりますが、ポーランド分割にかかわっていたオーストリアではポーランド人であるショパンへの風当たりは強く、演奏会もおもうように開けませんでした。父親が手紙ですすめたこともあり、ショパンはフランスに行くことにします。

ポーランド人であるため、なかなか旅券がおりませんでしたが、1831年ようやくオーストリアをしゅぱつ。途中ポーランドでの革命が失敗したことをきき悲しみます。ショパンはその悲しみや怒りを作曲にむけるのでした。
パリについてショパンはラジービウ大公と再会。デルフィーヌ・ポトツカ伯爵夫人のサロンで、大勢の芸術家に紹介してもらいます。
中でもフランツ・リストとは親友になりました、他にも詩人のザレスキ、ミツキェビチ、ロッシーニ、カルクブレンナー、ケルビーニらと知り合いになりました。
パリでは無名だったショパンは友人たちの計らいで1832年パリのプレイエルホールで演奏会を開き、絶賛されます。しかし演奏会自体は収入にはならずに困っていたところ、イギリスのロスチャイルド家の夜会での演奏が評価され、上流階級からピアノ講師の仕事が舞い込み、生活はゆたかになります。高級アパートにすみ、使用人をやとい、自家用馬車にのる生活をおくるようになります。楽譜も出版され、一人前の音楽家と認められるようになったのです。

1835年チェコのボヘミアの温泉地で両親と再会。3週間を一緒に過ごします。両親は立派になったショパンをみて安心して帰っていきます。
パリへ帰る途中に立ち寄ったドレスデンのボジンスカ家でショパンは友人の妹で昔ピアノを教えていたマリアに再会。二人は恋におち結婚の約束をしますが、2年ほどで手紙は途絶えがちになり、マリアの両親から正式に婚約解消の知らせを受け取ります。理由はよくわかっていませんが、ショパンが貴族でなかったことかもしれないといわれています。

このころ結核を発症。パリの街中で倒れたところを女流作家のジョルジュ・サンドにたすけられます。
サンドはショパンより6歳年上で、二人の子どもがいる女流作家で、男性の服装をしていることでも有名でした。最初サンドを避けていたショパンも、献身的に介抱してくれたサンドに失恋の傷をいやされ、ふたりの恋愛はパリ中の噂となりました。

1838年ふたりは口うるさい世間の目をのがれてマヨルカ島に別荘を借りて暮らしますが、島が雨季に入ると湿気がおおく雨漏りのする別荘でショパンは体調をくずして寝込んでしまいます。これをみた島の住人が結核がうつるからでていけと騒ぎだし、ふたりは山の修道院においやられます。二人は島をはなれフランス中部の村ノアンにあるサンドの別荘に移ります。

1840年から43年の間、春から秋はノアン、冬はパリで過ごし、ショパンの病状もおちついていました。
しかしショパンの病状が悪化するとともに二人のすれ違いは大きくなり、さらにサンドの息子モーリスが成人してショパンと対立。娘のソランジュもモーリスと険悪であり、家庭はおちつかなくなていました。

1844年父親の死(結核による)を聞いてショパンの病気が悪化。仕事を休むようにいわれても曲を作り続けるショパンをみて、サンドは自分より音楽を愛していると確信。さらに娘ソランジュの結婚問題も加わって、けんかになり、1847年二人は別れることになる。

サンドと別れたあとも、生活のためピアノを教え、作曲を続けるなかで次第に病気はおもくなっていきます。
1848年プレイエルホールで6年ぶりに演奏会をひらき、これがパリで最後の演奏会になります。演奏会は成功でしたが、パリで2月革命がおこり、演奏会どころではなくなったのです。
大勢の人がイギリスに亡命し、ショパンも生徒だった貴族のジェーン・スターリングの誘いでイギリスにわたります。

イギリスでは夜会に出席したり、ビクトリア女王の前で演奏したりします。しかしショパンの体は悪くなるばかりで、ポーランドを思う気持ちが強くなっていました。
1948年11月ショパンはパリに帰ります。寝込んでいたショパンを姉のルトビカが訪れ看病します。母親とティテュスは出国許可がおりず、これなかったのです。
1849年10月17日、姉やポトツカ夫人、大勢の見舞客にみまもられ、ショパンは39歳の生涯を閉じます。遺体はパリのペール・ラジューズに埋葬され、墓の上にはポーランドをでるときもってきたポーランドの土がまかれました。

ピアノの詩人といわれるほど、生涯でピアノ曲を多く作曲し、繊細な歌うような旋律の曲を残しました。派手なテクニックより、軽やかな指のしなやかさを活かした演奏だったようです。



ショパン―「ピアノの詩人」とよばれた天才作曲家   学習漫画 世界の伝記

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  • 作者: 千明 初美
  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 1996/07/19
  • メディア: 単行本



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