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ベートーベン 楽聖とよばれた大作曲家 (学習漫画 世界の伝記) [人]

読み聞かせ時間 小5男子自分で読んで15分(飛ばし読みしていたらしい)
ウケ度 あまりおもしろくなかったようだ
印象度 ベートーベンって貧乏だったのね

ベートーベンは1770年12月16日ドイツのボンで生まれた。
おじいさんはオランダから移ってきて宮廷の歌手になり、最後は楽長になった人で。お父さんも歌手をしていた。ベートーベンの名前はおじいさんと同じルートビッヒ。
2歳のころ父親が歌っていた歌をピアノで弾いて見せ、才能を見せる。
間もなくおじいさんが亡くなり、父親は酒好きだったため家計は追い詰められていく。
父親は酒代欲しさに、ルートビッヒの才能を利用することを考え、スパルタ教育をする。第2のモーツァルトを目指したらしい。そして1997年3月にケルンの演奏会で(年齢を6歳)と偽ってデビューさせる。
しかし、父親やその友人のレッスンはすぐに酒で中断してしまうようなものだった。
ルートビッヒは1781年からお城の楽団のオルガン奏者ネーフェ先生に教えてもらうようになる。ここでバッハのピアノ曲をひいたり、作曲のしかたも習う。そしてオランダへの演奏旅行を成功させる。
11歳のときネーフェ先生の助手となって協会のオルガンを弾くようになる。しかし、給料はすべて父親の酒代になってしまったらしい。
その後演奏を聴いた人の紹介でピアノ教師をしたり、ネーフェ先生の後押しで作曲した曲を出版したりして、1784年13歳でお城の第二オルガン奏者になった。給料は増えたがやっぱり父親の酒代に消えていたらしい。父親は音楽をすれば儲かるといっていたが、これがルートビッヒには不満だったようだ。
16歳のときウィーンで音楽をやる決心をする。ウィーンでモーツァルトの家を訪ねピアノを披露するが、通常の演奏ではあまり感心してもらえず、テーマをもらい即興曲を演奏すると、絶賛される。
しかし、母親の病気が悪化したとの知らせにボンに戻る。その間にモーツァルトはなくなってしまった。
母親を亡くしたルードビッヒは落胆するが、演奏を聴いた貴族の後援などを得る。
1792年22歳の時にはボンを訪れたハイドンに作曲した曲を見てもらい、ウィーンで教えてもらえることになる。しかし、ハイドンは多忙だったため、ほかの先生に教わっていたらしい。
その後ウィーンで評判のピアニストと腕比べをして勝利し評判になり、貴族の援助をうけて、その屋敷で暮らすことになる。しかし、貴族の生活は堅苦しくてあまり好きではなかったらしい。
その後も作曲などの音楽活動をつづけ、実力を伸ばす。このころから腸の病気を患っていたらしい。
1795年には先生のハイドンと演奏会を開くまで実力を認められることになる。
25歳のとき貴族の家をでて、弟2人をボンから呼び寄せ暮らすようになるが、耳の雑音に悩まされることになる。
このころフランス革命がおきて、ナポレオンが台頭する。貴族や王族だけが贅沢な暮らしをする世の中に不満をもっていたルートビッヒはナポレオンのために作曲をする。しかしその後ナポレオンが皇帝になったと聞き、楽譜を破り捨てたという。そして作曲された第三交響曲は題名を英雄に変えられた。
のち1812年にゲーテと会った時も、道でオーストラリア皇后にあったとき、ゲーテが道を譲ったので喧嘩別れしている。
貴族の娘ジュリエッタにピアノを教えているうちに、恋におちるが、身分違いのためにあきらめた。このとき「月光のソナタ」が作曲されたらしい。
その間にも耳はどんどん悪くなり、1802年にはほとんど聞こえなくなってしまった。一時は死のうとしたが、遺書を書いた翌朝の美しい光景に感動したベートーベンは、心のなかの音楽を楽譜に書き写す決心をして思いとどまる。それまで世間に耳の悪いことはかくしていたが、それからは公表し、補聴器をつかうようになった。
その後は初めて作曲した歌劇「フィデリオ」は受けなかったものの、第5交響曲「運命」、第6交響曲「田園」などを発表していく。
1809年ウィーンにナポレオン軍が乗り込んできて、演奏会も開けなくなりベートーベンの生活も苦しくなる。
ドイツのウェストファリア国王がベートーベンを自分の城に誘うが、ウィーンの貴族たちはベートーベンの才能を惜しんで、数人で年金を出してウィーンにとどまることを要請する。ベートーベンはこれを受け入れるが、年金を約束したうちの何人かは破産や死亡して、やはり生活は苦しかった。さらには2人の弟もだらしない生活でベートーベンに負担をかけ、弟の息子をひきとって世話しているうちに病気が悪化したりで生活はさらに大変だったらしい。
ナポレオンの力が弱まり、1813年12月にはようやくウィーンで演奏会がひらけるようになる。
1822年には歌劇「フィデリオ」が作り直され上演されることになるが、この総げい古の最中まったく耳が着かえなくなってしまう。52歳のころだった。
しかし、もう一人指揮者をたてることで指揮台に復活したベートーベンは「第9交響曲」を演奏し、大喝采を浴びる。しかし、人が教えなければそれに気が付くこともなかったという。
1826年55歳のころは寝込むことが多くなったが、弟の息子が借金の末ピストル自殺を図るというショックがかさなる。
床の中で読んだシューベルトの歌曲集をみて、「すばらしい、ほんとうに神々しい光がシューベルトにはある!」といったという。その後見舞いにきたシューベルトに会うが1週間後の1827年3月26日、「みなさん拍手を、喜劇はおわった」の言葉を残し亡くなった。
お墓はウィーンの中央墓地に作られ、お葬式には1万人もの人々が集まったという。




ベートーベン 楽聖とよばれた大作曲家 (学習漫画 世界の伝記)

ベートーベン 楽聖とよばれた大作曲家 (学習漫画 世界の伝記)

  • 作者: よしかわ 進
  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 1989/09/20
  • メディア: 単行本




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