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マリー・ローランサン 「パリの美神」とよばれた画家 [人]

読み聞かせ時間 小6小3二人とも自分で読んで20分くらい
ウケ度 感想はきいていません。
印象度 結局どういったことを考えていたのかはっきりしなかったあたりが生き抜けた理由でしょうか。

マリー・ローランサンは1883年パリのシャブロル街で、私生児として生まれました。母ポーリーヌ・メラニー・ローランサンは妻子のある男性アルフレッド・トゥーレと恋愛関係にあり、マリーはその子どもでした。
母は家で刺繍や服の仕立てを仕事にしていて、父はときどき土産を持って訪ねてきていました。しかし基本的には母と二人の静かな生活だったようです。教養があって歌のうまい母をマリーはとてもすきだったようです。父については1889年のパリ万国博覧会にいったのが唯一の楽しい思い出で反発することが多かったようです。しかし父の援助でマリーたちの生活は裕福であり、マリーは高級住宅地に住んで上流階級の娘たちの通うリセにいくことができました。卒業後に働かずに絵の勉強ができたのもそういった事情があったようです。
マリーは成績はよくありませんでしたが、繊細で美しいものが好きなマリーは同級生たちがなによりも好きだったようです。ジャンヌ・ケリーは学校時代の数少ない友人でした。
母はマリーに大学に行って教師になる道を選んでほしかったのですが、マリーは絵が好きで、画家になりたいといい、19歳の時許してもらい、デッサン学校に通うようになります。ここでジョルジュ・ブラックにあって、才能があるといわれます。「洗濯船」というのちに有名になるアトリエのメンバーでもありました。彼の誘いでアンベール画塾に通うようになります。ここでジョルジュ・ルバーブやに会います。
アンリ・ピエール・ロシュは若く裕福な美術愛好家で、彼はマリーの才能を認めその絵を購入し、世にだすのにおおいに力添えしました。
ブラックに連れられて「洗濯船」にも出入りするようになり、マックス・ジャコブ、パブロ・ピカソ、アンドレ・サルモンらと親交を結びます。ただ、ピカソの恋人フェルナンドとは何かと相性が悪かったようです。
マリーは少女のように自由で時には本当に縄跳びしながら町を行くような子供っぽいけれぼ無邪気で魅力的な女性だったようです。そんな彼女を見たピカソはギヨーム・アポリネールという当時駆け出しの詩人・美術評論家とマリーの相性を見抜き、二人を引き合わせました。ピカソの予想通り二人は恋に落ちます。
ふたりの肖像を画家のルソーが残していますが、それはルソーを励ます会をピカソたちが開いたとき、マリーが酔っぱらって料理に突っ込んで、それがかえってルソーをご機嫌にさせた、そのお礼に書かれたものだそうです。本人よりかなり太っている女神にかかれています。
ギヨームと付き合っている間にも、女性らしいやわらかい画風の独特の色使いを用いた画風を完成させていきます。恋人や仲間が新聞などで紹介され、ローランサンは職業画家としての立場を築いていきます。
1911年、ギヨームがルーブル美術館の「モナ・リザ」盗難事件に巻き込まれ逮捕されます。母も詩人や画家など浮ついた人と付き合うなといい、それ以前からすれ違いが多くなっていた二人は自然とわかれたようです。
1913年母ポーリーヌが51歳で突然なくなり、マリーは傷心のあまり絵も描けず、何度か旅行にも出かけます。友人たちがギヨームとの仲をとりもとうとしたこともありますが、うまくいきませんでした。このころロシュの誘いで出かけたパーティでオットー・フォン・ベッチェンと出会います。彼はドイツの貴族で画家でもありましたが、遊び人でもありました。オットーの巧みな扱いにマリーは心を癒され結婚してしまいます。
1914年に二人はパリで結婚し、マリーがドイツ国籍になった直後、第一次世界大戦が勃発、二人は敵国同士になり、中立国のスペインで5年の亡命生活を送ることになります。最初は優しかったオットーはすぐtに遊びまわるようになり、さみしさからマリーはたくさんの手紙を友人たちに送っています。亡命中の作品はしずんだ色調になっています。
1916年志願兵になっていたギヨームは爆弾のため負傷。一時は回復したものの対戦終結前にスペイン風邪で38歳の若さでなくなります。マリーは亡命先で電報で知りました。ニコル・グレーは危険を冒して亡命先のマリーに絵を売った代金や手紙や荷物を送って援助してくれていました。
終戦後マリーはパリに帰りたいと思っていましたが、ドイツ国籍のためなかなか許可がおりませんでした。マリーたち夫婦は夫の実家などを転々としていたようです。
1920年にマリーの活動の甲斐があって、入国許可がおりますが、オットーはついてきませんでした。二人は1921年に離婚します。
パリでマリーを待っていたのは流行画家としての輝かしい生活でした。展覧会もうまくいき、肖像画の注文が殺到、女性らしい色使いや詩情あふれる画風が戦後の時代にマッチしたこともあるようです。唯一服飾デザイナーとして活躍していたココ・シャネルはマリーの肖像画が気に入らないと返してきて、マリーはこの絵を自分で引き取りました。仕事は演劇やバレエの舞台美術にも広がり、順調でしたが、ニコルも結婚してしまい、心の空白をうめてくれるものをマリーは求めていたようです。
1925年、20歳で女中に来たシュザンヌ。モローをマリーは娘のようにかわいがり、家事一切をまかせることにします。シュザンヌはよくマリーに尽くしましたが、一方で自分の気に入らない人をマリーに取り次がなくなり、友人や芸術家の間に溝をつくる面もあったようです。仕事がたくさんあったおかけで、世界恐慌の時代も贅沢をしてすごしたマリーでしたが、1937年53歳でレジオン・ド・ヌール勲章をうけたころには展覧会の評判もおちて、人気は翳りをみせていました。
1939年第二次世界大戦がはじまり、1942年にはパリがドイツに占領されたため、マリーはアパートを追われ、マスラン街の小さな館で質素な暮らしをしていたようです。当時は配給だったためでした。
1944年パリは解放されましたが、アパートに居座った人たちと裁判になり、戻れたのは9年後でした。また友人のマックス・ジャコブはナチスの強制収容所で亡くなりました。
晩年のマリーは社交上のつきあいもあまりせず、家に引きこもり、創作活動もほとんどしなくなっていました。絵は想像の中で書いた優美な少女が多くなっています。
心臓も悪化したため、死後のことを考えて30年間使えてきたシュザンヌを養女にし、手紙の片づけを始めます。1956年6月8日自宅で亡くなっているのをシュザンヌが発見し、遺言どおり白いドレスを記せられ、手に赤いバラとギヨームとの手紙の束をだいた姿にされ、真っ先にニコルがよばれて対面しました。

わがままで、むじゃきで、贅沢が好きで、美をなにより愛した72年の人生でした。


マリー・ローランサン 「パリの美神」とよばれた画家 (学習漫画 世界の伝記)

マリー・ローランサン 「パリの美神」とよばれた画家 (学習漫画 世界の伝記)

  • 作者: 千明 初美
  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 1996/11/22
  • メディア: 単行本



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