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アンデルセン―世界じゅうで愛される「童話の王さま」 [人]

読み聞かせ時間 小6男子自分で読んで20分
ウケ度 普通かな
印象度 貧乏なのは知っていたが、作家になる前にいろいろやっていたのはしらなかった

ハンス・クリスチャン・アンデルセンは1805年4月2日、デンマークのオーデンセという小さな村に生まれました。父親は靴職人のハンス。母はアンナ・マリーというひとでした。
父は勉強ができましたが、家が貧しく進学を断念していました。そのため息子にはラテン語の教育をうけさせたいと思って、いろいろ努力していたましたが、あまりうまくいかず、最後は精神を病んで亡くなりました。祖父もそうだったため、アンデルセンは生涯自分も精神の病にかかるのではと怯えていたのです。

11歳の時、父を亡くしたアンデルセンは少し前から学校に通ってはいましたが、夢見がちで空想壁があり、勉強はあまり好きではなかったようです。お話は好きで、小さいころは父親に「アラビアン・ナイト」の話をきいたり、母の洗濯屋の手伝いで行った牧師の家から「ハムレット」や「リア王」を借りて読んでいました。

生活は苦しくアンデルセンも織物工場ではたらくようになります。母は靴職人と再婚しますが、このころから飲酒が習慣になります。このころアンデルセンは俳優を夢見て歌の練習ばかりしていました。歌はうまかったらしく貴族のパーティによばれるようになり、オーデンセの宮殿でクリスチャン王子の前で歌うことになります。周囲は希望をきかれたら「ラテン語学校へいきたい」というようにといいますが、アンデルセンは「俳優になりたい」といいます。しかし王子はそれほどの才能は感じないので、手に職をつけるようにというのでした。

しかし、あきらめきれないアンデルセンはためたわずかなお金と、コペンハーゲンの王立劇場の人気女優ショル夫人あての紹介状をもち、14歳でコペンハーゲンへいきます。
途中船で知り合いになった夫人が、心配して住所を教えてくれました。

しかし頼りの紹介状はあまり役にたたず、無理に演技をみてもらうも、ショル夫人には追い出され、王立劇場のラーベック先生にも認めてもらえませんでした。アンデルセンは残ったお金でお芝居をみて、やはり俳優になりたいと考えますが、お金がありません。船で知り合った夫人を訪ね、工場の仕事を紹介してもらいます。
しかし、仕事は続きませんでした。

王立劇場の音楽学校の校長シボーニ氏を訪ねたアンデルセンは、身の上話と歌声でなんとか声楽の授業をうけられるようになりますが、半年後に声がダメになりオーデンセに帰れと言われます。
しかし、立ち直りが早く前向きなアンデルセンは歌がダメなら踊があると、バレエ学校のダーレン教授に頼んで学校にいれてもらいます。一度は舞台に立って役もつきますが、こちらも才能がないと王立劇場をやめさせられてしまいます。17歳でした。

しかし、今度は作家になることを思いつき、戯曲を書いて王立劇場に送り続けます。その一つが魅力があると認められるが、文法がめちゃくちゃなのでラテン語学校へいくようにといわれ、枢密顧問官ヨナス・コリンの援助で給費生としてスラゲンセにあるラテン語学校に通い始める。しかし、校長のマイスリングにいじめられ、家に下宿させられ、小守や家事をおしつけられます。この事態は知人によってコリンにしらされ、アンデルセンはやっと退学することができました。22歳のときです。
この学校にいる間にオーデンセの母親を訪ねていますが、母親は相変わらず貧しい暮らしをしていて、お間が自慢だよ話していたそうです。

コペンハーゲンに帰って翌年大学入学資格試験に合格。大学に通いながら小説や戯曲を発表。戯曲は大好評でしたが、お金にはならないためアンデルセン自体は相変わらず貧しく、曜日ごとに訪ねる家をきめて食事をごちそうになっていました。アンデルセンは生涯で何度も旅行していますが、旅行費用も援助してもらっていたそうです。

女性にも何度が恋したようですが、すべてうまくいかず、生涯独身でした。
しかし、傷心を忘れるため旅にでて、それをもとに旅行記などを描いていたようです。
特に38歳のときであったスウェーデンの歌手ジェニー・リンドには結婚してほしいと考えていたようですが、純粋すぎるアンデルセンは夫としては向かないと敬遠されていたようです。この失恋のあともイギリスなどに旅行にでかけています。

1833年旅行中に母が慈善病院でなくなりました。少しは有名にはなったものの、お金のなかったアンデルセンは生涯母に楽な生活をさせてあげることはできなかったのです。
55歳のとき国王フレデリック7世に年金の額を尋ねられ、600リークスダラーと答えたところ、国王は、「あなたほどの作家に対して少ない」といったそうです。アンデルセンは「作家に必要なのはお金ではなく名誉で、多くの友人がささえてくれるので心配ない」と答えています。
事実、一生作品では食べられず、ヨナス・コリンがなくなったあとはメルキオール家の援助をうけ、かれらの別荘で暮らしていました。

1835年30歳のときの小説「即興詩人」が大評判になります。その後童話集「子どものために話して聞かせる話」を出版。童話というジャンルはなかったため、なぜ子供の話など書くのかといわれたりしたようですが、幼い子供を喜ばせるのも立派な仕事だとの信念のもと書き続けます。

作品がみとめられ、王立劇場で上演する戯曲に国王陛下が来るほどになったアンデルセンですが、両親が貧しい生まれであった故の差別は生涯うけていたし、結婚の妨げにもなっていたようです。
みにくいあひるの子は彼自身でもありました。

旅行では有名な作家に会い、親交を深めました。みなアンデルセンの著作をよんでいた歓迎されたといいます。ドイツのグリム兄弟、イギリスのチャールズ・ディケンズなどです。

晩年はドイツとの戦争の悪化で頭を悩ませた時期もありましたが、パリの万博に旅行にいったり、執筆活動をし、62歳のとき枢密顧問官の称号とオーデンセの名誉市民になりました。

1875年70歳で亡くなり、国葬になりました。いまでもデンマークには「人魚姫」「ある母親の物語」の死神、「野の白鳥」などの像があります。生涯で150以上の童話を書いたアンデルセンは童話の王様とよばれています。


アンデルセン―世界じゅうで愛される「童話の王さま」   学習漫画 世界の伝記

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  • 作者: 森 有子
  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 1996/07/19
  • メディア: 単行本



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