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二宮金次郎 農業の発展につくした偉人 [人]

読み聞かせ時間 小5一人で読んで25分
ウケ度 まあまあ
印象度 二宮金次郎がなにをした人かはじめてしりました。

二宮金次郎は1787年(天明7年)現小田原市栢山の豊かな地主の家に生まれました。

このころ、天明の飢饉の最中で、百姓はあいつぐ不作と、財政難の幕府の年貢とりたての間で苦しんでいました。不作の原因は浅間山の噴火による噴煙が日光を遮ったためといわれています。

金次郎の父利右エ門は、頼まれるといくらでも人に親切にしてしまうお人好しで、それでも田畑がある間は貧乏になりながらも、なんとか食べていけました。

しかし1971年(寛政3年)嵐で酒匂川の堤防が決壊。先祖代々の田畑が荒れてしまい、一家は一気に貧乏になる。以前に親切にした家にも返済を断られ、ひたすら田畑をもとに戻すために一家は必死で働く。
しかし、利右エ門が倒れてしまう。

見てもらった医者から「学問」を学べば、農民の暮らしをよくする方法が学べると聞いた金次郎は、父親の本で勉強を始める。

金次郎は父親の代わりに堤防の工事にもでるが、子供で力が弱いため、周囲に馬鹿にされる。しかし、金次郎は家で草鞋をつくり、「自分は力が弱く役にたたないから」とお詫びにくばる。子供の力で一生けん命働いた上に草履までつくる金次郎をみて、大人たちはやる気をだしていく。
さらに金次郎は余った草鞋を売って父親が大好きな酒を買う。
また、ある日は酒の代わりに売れ残った松を買って、酒匂川の土手に植えて、大水を防ぐことを思いつく。この松はいまも酒匂川にある。
金次郎の心を知った両親は酒よりもうれしいとよろこぶが、父親はなくなってしまう。

母親と金次郎と弟は必死で働き、なんとか暮らしを立てようとする。また時間のない中でも、学問が家を建て直すカギだと信じる金次郎は薪を運びながら本を読んだ。この姿が銅像だね。
しかし、村人たちは金次郎の頭がおかしくなったと笑う。
ある日、母親の父親がなくなるが、母親は着ていく着物がない。金次郎は親の葬式なんだからこのまま行こうというが、実家では金次郎たちの姿をみて、納屋に閉じ込め参列させてくれない。
母親は悔しがってその1か月後になくなってしまう。金次郎14歳、弟11歳、2歳。

二人の弟は母親の親戚に引き取られ、金次郎は父の兄の家にひきとられる。
叔父は金次郎を厳しく働かせ、また学問をすることを快く思わなかった。
金次郎はそれでも学問を続けるが、ある日夜中に本を読んでいると、油がもったいなからよせと言われる。
そこで、金次郎は菜種を借り受け、1年かけて育て、増えた中から菜種を返し、残りは油にして勉強をつづけた。そして、これこそが、積小為大と気が付く。

ある日道端に植えるのに余った稲の苗があるのをみて、荒れ地でコメをつくることを思いつく。新しい土地は7年間年貢をおさめなくてよいという決まりがあったので、この方法で家を建て直すことにする。
叔父の家をでた金次郎は、ほかの農家を手伝って、そこの子供に勉強を教えたりしながら、荒れ地を開墾し、18歳のときには20俵もの収穫をえるまでになった。身長は182cmの堂々とした青年になっていた。

荒れ果てた実家に帰った金次郎は開墾をつづけ、収入で二宮家の田畑を買戻し、4年で指折りの地主となり、二宮家を建て直す。
1812年金次郎は侍の生活をみて学問に役立てようと小田原藩の家老服部家に働きに行く。
そこで見たのは、建前のために浪費をつづけ、借金まみれになった武士の姿だった。
これではいくら年貢を納めてもよくはならないと考える。

3年後勤めをやめて村に帰り、ますます田畑を増やしていく。おべんちゃらを使う人も増えたが、苦労している金次郎はうわべで判断するのはよくないことをよく心得ていた。このころには足柄平野で1番の大地主だった。

1818年31歳のとき、何度もたのみこまれ、以前働いていた服部家の財政再建に起用される。
金次郎は家老に5年間の間、いっさいをまかせてほしいと頼み、
思い切った質素倹約を家のルールとする。そして、このままでは家がつぶれること、自分よりうまい方法があれば名乗りでてほしいというと、みな従ったという。
厳しいルールを用いる一方で、不可抗力で高いお皿を割ってしまっても正直に話したものは許してやったり、
買い物や、薪などの消耗品を節約したものには、その分のお金をあげたりして、使用人たちにやる気をださせた。また、使用人の給料から一定のお金をあつめ、病気のときなどに貸し出す「五常講」とうものを考案したりした。借金取りたちも、金次郎が貧乏から足柄平野一の大地主になった実績をみこんで、借金を待ってくれた。こうして1000両の借金を返したうえで、300両のお金を貯めた。
服部は褒美に100両を与えたが、金次郎はすべて使用人たちに与えて帰っていった。

この話を聞いた小田原藩城主 大久保忠真は、金次郎を取り立てたいと思うが、周囲の反対にあう。そこで桜町領立て直しの仕事を与え、それに成功したら取り立てることになる。
金次郎は断るが、服部らの尽力で、桜町領の調査を行い、再建策を報告する。
大久保は、それを受け入れ、10年間は1,000俵の年貢でよいことなり、金次郎は田畑を売り払い妻子とともに桜町領に移り住み、再建にあたる。
一部には金次郎を懐柔しようとしたりする動きもあったが、苦労している金次郎はすぐに相手の腹がよめてしまったという。

移り住んだ翌日から桜町領を構成する3つの村の農家をくまなく回り、夜遅くまで働いて農民に節約と農業を指導した。またよく働いたものに「くわ」や「かま」を与えて表彰した。
役人の中では横山周平は金次郎のやり方に賛同してくれて、仕事ははかどった。
しかし、横山が病気になると、以前桜町領で悪事をはたらいてお金を稼いでいた一派の陰謀と、役人の妨害が加わり、仕事の邪魔をされるようになる。
小田原藩にも、金次郎を非難する報告があがるようになるが、城主大久保は金次郎を信じることにする。
しかし、妨害は激しくなり、桜町領は以前の荒れた状態に戻ってしまう。
なにもかも捨ててきた金次郎は悩み、千葉の成田山で21日間断食修行をする。
金次郎がいなくなって、農民たちは金次郎の熱い思いに気づき、金次郎を探してくれと小田原藩の江戸屋敷に押し掛ける。これは下手をすると死罪に問われる行動だった。
農民たちの思いに気づいた大久保は、横山をもとの職に戻し、金次郎を非難した者たちを遠ざけた。こうして金次郎は桜町領にもどり、それ以来二宮尊徳と呼ばれ尊敬されるようになる。
桜町領は立ち直り、1831年には1894俵の米を年貢に収めるまでになった。

その後周辺の村の発展につくしていたが、1833年(天保4年)宇都宮で食べた初ナスが秋ナスの味がするといって、凶作がくることを予見。村ききんに備えさせる。天保の飢饉の間、桜町領周辺では悠々と暮らしていたという。

小田原藩主大久保忠真は江戸屋敷で寝込んでいたが、駿河国の領民を救ってくれと頼まれる。
金次郎が現地に赴くと、飢饉に備えていなかった駿河国ではなすすべがなく、金次郎は交渉して藩の米蔵をあけさせ、領民の命を救った。

金次郎は有名になったのでたくさんの人が教えを乞いにあつまってきた。しかし、自分の仕事ができないので、あまり人とあわなくしたが、それでも通ってくる熱心な人は弟子になったりした、これらの人々は金次郎の教えを広め、農村立て直しにつくした。

烏山藩、下館藩、相馬藩の立て直しなどを手掛け、これらの功績をみた、老中水野越前守忠邦が役人にとりたて1842年(天保13年)日光神領の立て直しをまかされる。
ここでは、あまり上役に恵まれず、また引き立ててくれた水野が失脚したり、小田原藩でも大久保忠真が亡くなり金次郎反対派が金次郎の小田原追放などを決定。
逆風のなかでも、金次郎を敬い慕う人々のために金次郎は働き続け、日光の農家をまわる仕事の途中で1865年(安政3年)69歳で亡くなった。

農民出身で、農民のために一生をささげた彼の仕事は「報徳仕法」と呼ばれている。

農民出身で役人になtったひとだったんだね。体力すごかったんだろうなあ。


二宮金次郎 農業の発展につくした偉人 (学習漫画 世界の伝記)

二宮金次郎 農業の発展につくした偉人 (学習漫画 世界の伝記)

  • 作者: 古城 武司
  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 1989/09/20
  • メディア: 単行本



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